第10回 |コラム澤口 「立場と役割①」           

一般社団法人 日本事業戦略総合研究所(co-founder)、理事の澤口です。
全12回シリーズで、個人的に興味深かったことについて、自由気ままに書き綴って参りますので、お時間がある方はお付き合い下さい。


今回の第10回のお題は「立場と役割①」です。
先日、コロナ禍で上映が延期延期となっていた映画「峠 最後のサムライ」の上映日が令和4年になったとの話を聞きました。

俳優の役所広司氏が演じるこの映画の主人公は幕末越後長岡藩の河井継之助(読み方は「つぎのすけ」が正しく、「つぐのすけ」には悪意があります)ですが、私は30年以上前にその存在を知ってから関連する著作を読み漁ったオタクであります。

幕末明治維新というと一般には薩摩藩や長州藩といった西国雄藩出身者、そして小栗上野介忠順や勝海舟といった幕府側の人間、はたまた会津藩のような佐幕雄藩出身者の知名度が高く、7万石程度の小藩の人間にスポットライトが当たることは珍しいです。

しかしながら「駆け抜けた42歳の生涯」が非常に凝縮されていること、責任ある立場の者として最後の選択を行い、結果として長岡の地が戦火に沈んだ事実に現在でも議論があり地元長岡において今も評価が分かれていること・・・、
なかなか癖がある人物です。

私が彼に着目したのは、某土佐藩脱藩浪士や某薩摩藩郷士の創作的「かっこよさ」ではなく、実務家として絶対的な成果がありながら最終的に「評価が真っ二つに分かれた」価値観や生き様に興味を持ったからです。

個人的な憧れではなく「等身大の評価」と言いましょうか。



映画「峠 最後のサムライ」は司馬遼太郎の小説「峠」を題材としていますが、「最後のサムライ」の表現から河井継之助の41歳から42歳までの人生最終章、即ち戊辰戦争において総督の立場で戦争を指揮した北越戦争に焦点を当てた作品であると推察します。

北越戦争は当時の地球上の最新鋭兵器が激突した戦争であり、民間人を含め多くの人命が失われた凄惨な戦いとなりました。

アメリカの南北戦争(1861~1865)は、日本においては明治維新前夜に当たり、南北戦争の終結により世界中で「有り余った兵器」が武器商人により日本へと持ち込まれました。
薩摩藩兵に従軍した西郷吉之助(隆盛)の弟である西郷吉二郎も北越戦争で戦死しており、広く知られる会津藩の悲劇とは趣が異なる独特の悲劇があります。



私が考える河井継之助の凄みは、この人生最終章ではなく、若き日の江戸留学時代から備中松山藩の山田方谷(ほうこく)から直接指導を受けた日々、そして長岡藩での藩財政立て直しの実績を経て同藩の総督に上りつめる各過程において放った光であり、商業映画のキャッチコピー=最後のサムライではありません。

河井継之助を題材にすると、どうしても西軍と決定的決裂を見た小千谷会談以降の話(後述します、おそらく映画のクライマックス)に行き着いてしまいますので、そのことが以前から非常にもったいなく思っておりました。



先程、価値観や生き様に興味を持ったと言いましたが、より具体的に言いますと、河井継之助を初めて知った若造の時から「同氏の価値観が自分と瓜二つ」であり「こんなにそっくりな人間がいたのか?」と驚き、「自分は同氏の生まれ変わりではないか?」と本気で考えた時期があったくらいです、馬鹿ですね~。



本コラムは経営コラムです。
河井継之助は武士・武人として人生を終えますが、それに至るまでの価値観や生き様は類いまれなる為政者であり、そして優秀な実務家でありました。

今回と次回の2回分に分けて、世間であまり知られていない河井継之助の「スゴさ」を出来るだけ中立の観点から紐解くため彼の成功事例および失敗事例を丹念に見ていきますので、是非とも知っていただきたいと存じます。

2回分のコラムが終了した時、今回のコラムのタイトルである「立場と役割」が鮮明になると存じます。
合わせて、日常生活にかまけて忘れやすい「矜持」についても考察してみたいと存じます。

今回もお付き合いいただけると幸いです。
◆司馬遼太郎の歴史小説の底流である「司馬史観」

本論に入る前に、最初にこのことを明確にしておく必要があります。

特に50代以上の方々は同氏のベストセラー小説を読まれていると思います。
私も20代から30代前半までは同氏の歴史小説の大ファンであり、吉川英治の三國志もそうですが、それこそ何度も読み込んだ記憶があります。

当時はいわば「ビジネスマンの常識」と言う位置づけでして、若造銀行員が老練(老獪)な企業経営者と「共通の話題を作り上げる」ためのバイブル的な存在でした。

「読んだ?」
「知ってる?」
「どう思う?」
「そうだよね~、漢(おとこ)だね~」
的な。

同氏の歴史小説は、同氏の歴史観、世に言う「司馬史観」を底流としております。
つまり、同氏は徹底的な資料の読み込みや調査を行った上で、自らの創作により人物像に肉付けを行い、その人物を英雄や豪傑、はたまた快男児として生き生きと闊達によみがえらせます。

司馬史観はあくまで同氏の創作活動のアウトプットに過ぎませんが、読者の多くは同氏の歴史小説を「あたかも真の歴史」と信じ込んでしまうという負の側面があります。

令和3年のNHK大河ドラマの主人公は渋沢栄一ですが、彼や彼の周りの「実務家」が明治の経済や社会の制度を作っていった訳でして、「維新の元老」が成し遂げた訳ではないことが大河ドラマでしっかり描かれています(その点が気に入っています)。

戦国時代にしろ、明治時代にしろ、はたまた現代にしろ、実務は各方面の専門家が担っており、「英雄豪傑や声が大きい政治家」が担っている訳ではありません(だから石田三成はすごいのです、もっと評価されてしかるべき)。

一方で人物評価について言えば、人には「負の側面」があり、渋沢栄一や伊藤博文の当時ですら問題となった「下半身問題」は余りにもひどい有様ですが、大河ドラマでは殆ど触れられていません(伊藤博文ですが、女性を掃いて捨てる(比喩、「手当たり次第」の意)から「箒(ほうき)」と呼ばれていたこと知っていましたか?)。

世の人物評価とは「一元的」になりやすい傾向が強まっていると思われますが、本来は「多元的」でなければならないし、全ての評価軸を網羅しなければならないと思料します。

それは我々も同じことです。


話を戻しますと、司馬史観において、坂本龍馬は小説「竜馬がいく」で、土方歳三は小説「燃えよ剣」で、そして河井継之助は小説「峠」で美化され、多くの読者は盲目的に信じてしまいました。

「こういう漢(おとこ)になるぜよ!」という感じでしょうか。
長州の品川弥二郎が言ったとされる「船中八策・世界の海援隊」なんて、その極みです。

(補足)小説「竜馬がいく」のネタ本

同小説の原作は、明治時代の小説「汗血千里駒(かんけつせんりのこま)」です。
この小説は高知で発行された地元紙・土陽新聞に連載された「坂本龍馬を主人公にした小説」であり、当時絶大な人気を博しました。

明治新政府は薩州(薩摩)・長州・土州(土佐)・肥州(肥前)が成し遂げた軍事クーデターの産物ですが、結果として政府や軍部の中枢は薩摩閥と長州閥が占めるようになり、土佐や肥前は権力中枢から追いやられ、そのことが自由民権運動へと進展していくことになります。
土佐の板垣退助しかり、肥前の大隈重信しかり。

日露戦争での日本勝利を決定づけた日本海海戦に関し、明治天皇の皇后の夢枕に坂本龍馬が立ち「海戦は日本の大勝利」と告げたという話(逸話)が当時の宮内大臣である田中光顕から流布されます。
田中光顕が皇后に坂本龍馬の写真を見せて、夢枕に立った人物を特定したとのこと。
「そう、この人です」と。
この田中光顕の出身は土佐藩でして、土佐と言えば「龍馬の海援隊」、何やら強引かつきな臭い感じがするのは私だけでしょうか?

(補足)船中八策

慶応3年(1867)に坂本龍馬が起草させた新国家構想。
長崎から上洛中、土佐藩船中で後藤象二郎に示したものとされ、朝廷への政権奉還、二院制議会の設置、外国との不平等条約の改定、憲法の制定、海軍の拡張など8か条からなる。
後にこの構想は、大政奉還、明治政府の五箇条の御誓文となって引き継がれた。(出典:大辞泉)

小説「竜馬が行く」で、長州の品川弥二郎が「船中八策に坂本さんの名前がない」と指摘した時に、坂本龍馬が「世界の海援隊をやるぜよ!」と言い、品川弥二郎が「坂本さんの器の大きさを思い知った」というくだりがありましたが、私は司馬遼太郎(汗血千里駒)の創作だと思料します。
かくいう私も一時期は小説「峠」=河井継之助の実像とまるっきり信じきり司馬史観に盲目でした。
その後、河井継之助に関する多くの著述を読み、判明している事実を丹念に把握することで創作活動と河井継之助の実像との差、そして「光と影」を認識した次第です。

歴史小説は「売れてなんぼ」ですし、当時は新聞小説の形で新聞の購買数に直結する主力コンテンツでしたから、それは読者迎合=読者が読みたいモノに寄り添うことに違和感はありません。

しかしながら、このカラクリを最初に紐解いておかないと、我々はいつまで経っても「司馬史観の呪縛」から解き放たれません。


念のため繰り返しますが、司馬遼太郎は綿密な調査と資料の徹底的な読み込みを行っていますので嘘八百の創作ではありませんが、同氏の人物描写が巧妙であればある程、人物が美化され、それを読者が「歴史事実と誤認してしまう」というマイナス面がある、と指摘している次第です。

先ほども言いましたが、人物評価はタダの一側面から一元的に決まる筈はありません。

軍事クーデター(戊辰戦争)前夜の京都薩摩藩邸において、大久保一蔵(利通)や西郷吉之助(隆盛)がいかに人望を持っていても階級社会の真っ只中でタダの郷士出身者が薩摩藩軍を動かせる筈がないじゃないですか?
これでは家老の小松帯刀を軽視し過ぎるってもんです。

薩摩藩の「うるさ方」である国父・島津久光を丸め込んだのは家老・小松帯刀です。
こんな簡単なことにすら司馬史観により我々を盲目になってしまうのです。


なお、司馬遼太郎の小説「英雄児」という短編小説には小説「峠」とは異なる視点、即ち「河井継之助の負の部分」に焦点を当てています。
河井継之助が長岡藩のような小藩ではなく薩摩藩や長州藩のような西国雄藩や会津藩のような大藩に生まれていたらどうであっただろうか?
という問いかけです。

小説「英雄児」の決言は「英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい」であり、河井継之助の師匠である山田方谷の言葉を曲解して当てはめたものなのですが、30年来の河井継之助ウォッチャーの見解では「河井継之助はそんな単純な人物ではない」という確信に至っております。


今回のコラムは内容の正確さを期するため、下記の3冊を網羅的に参照させていただきました。
  • 今泉鐸次郎 『河井継之助傅』
  • 安藤英男編 『河井継之助のすべて』
  • 稲川明雄 『決定版河井継之助』
簡単ではありますが、お礼を申し上げます。

それでは、河井継之助の人生を脚色無く正確に追って参りましょう。
年齢は全て「数え年」です。
◆河井継之助の幼少期~青年期

彼は文政10年(1827)正月元旦に長岡城下の同心町で生まれました。
同心町は文字通り町同心の居住区であり、世禄120石の河井家がなぜ同心町に住んでいたのかは謎だそうです。

父親の河井代右衛門秋紀(だいえもんあきのり)は、藩の勘定頭諸役を歴任した能吏(のうり)であり、同時に茶道をたしなみ刀剣の鑑定にも優れ、僧の良寛と親交のあった文化人でもありました。

代右衛門の先妻が病没し、後妻の貞子の長男が継之助になります。
肉親の証言から母の貞子は算盤が得意な気丈な女性だったそうで、継之助は母を畏れていたという話があります。

子供時代は非常に腕白だったそうです。
長岡藩7万4千余石は越後の内陸に位置し城下近くを信濃川が流れている地理にあり、藩主の牧野家は三河牛久保出身で元和4年(1618)長岡に入封以来、幕末まで12代にわたり同地を治めました。
藩是は「質撲剛健」、三河武士の「常在戦場」の精神を重んじ、藩風は実利・実学を重んじた道理を貫く気位の高い風土だったそうです(「常在戦場」とは良い言葉です)。

小さい藩ですが、その後に多くの人材を輩出することになるのですが、その根底にはこうした藩風が無関係とは思えません。
嘉氷2年頃(1849頃)まで、城下町には桶宗(おけしゅう)という若者のグループがあり、グループから川島鋭次郎(後の三島億二郎)や(米百俵で有名な)小林虎三郎といった後に長岡を背負うものたちを輩出します。

桶宗の由来は「水も漏らさない強固な結びつき」だそうです。



有名なのは「天保14年(1843)、17歳の時に鶏を割きて王陽明をまつり立志を誓った」の逸話でしょう。
後述する七言絶句の詩に逸話が見えます。

「何歳から」が明確ではありませんが、少年河井継之助は王陽明と陽明学に深く傾倒していったことがうかがい知れます。

(補足)蒼龍窟の号の由来

小説「峠」では、「邸内の松が高くそびえると同時に屈曲し、緑の『きぬがさ』が地を覆うようになっていることにちなんでいる」との記述がありますが、これは長岡郷土史家であり本コラムで参照させていただいた『河井継之助傅』の著者・今泉鐸次郎の意見に基づきます。

しかしながら、禅宗の語録『碧巖録』第18則に蒼龍、第3則と第99則に蒼龍窟の話が出てくることと、王陽明が禅宗に熱中したことがあること、王陽明の詩を河井継之助が愛誦していたことから、禅宗由来が正しいと思料します。
◆江戸留学

藩士の遊学には藩庁の許可が必要でした。
河井継之助は再三遊学願いを出していたそうですが、なかなか許可されません。
最初に許可されたのは嘉永6年(1853)春の26歳の時です(通説は嘉永6年、嘉永5年説もあります)。

最初は大垣藩士・斎藤拙堂の門に入り、ついで古賀謹一郎(茶渓)の久敬舎に移り、同時に佐久間象山の門人でもありました。
嘉永6年の砲術門人人名録に小林虎三郎・川島鋭次郎(億二郎)らと共に名前が確認できます。

古賀茶渓の久敬舎に入門した時は、書庫で『李忠定公集』を見つけるや寝食を忘れて10ヶ月で筆写し終えたとのことです。

小説「峠」にも「河井は彫るように書く」という表現がありましたね。

(補足)李忠定公集

正式名称は「李忠定公奏議選」です。
李忠定(りちゅうてい)こと李鋼(りこう)(1085~1140)は北宋および南宋の時代に活躍した人物で、北宋時代は主戦派として北方の金の軍勢の侵攻を防ぎ、南宋時代も主戦派として南宋建国のために働いた中央官僚です。
「李忠定公奏議選」は、李忠定が上奏した議論全69巻から頼山陽(らいさんよう)(安永9年(1780)~天保3年(1832))が選び出したものの書籍です。
河井継之助が「李忠定公奏議選」を格別に好んだ理由は正確には分かりませんが、李忠定が生きた「内憂外患の北宋南宋の時代」を自らが生きる今の時代に重ね合わせていたから、という意見があります。
「李忠定公奏議選」が政策提言書の抜粋ですので「政策実務の教科書」として、もしくは「実務に臨む者の矜持」として参考にしたのではないかと思います。
一方で、主戦派ということは必ずしも周りの全員が「心穏やかになる」という訳ではありませんから、まさに実務の話ですね。
あの「癖が強い」との歴史評判である佐久間象山との関係ですが、後に河井継之助は「佐久間翁は、豪い(えらい)ことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったそうです。
ただ、佐久間象山は河井継之助が筆写した『李忠定公集』を激賞し、標題を題簽(だいせん)に書いています。

(補足)題簽(だいせん)

文書の題名を記した縦長の紙のこと。
嘉永6年(1853)はペリーの黒船来航の年でもあり、河井継之助は同輩と共に当時老中の要職にあった藩主・牧野忠雅(ただまさ)に藩政を論じた献言書を上呈しています。
この献言書が河井継之助を藩政に参与させる端緒となったと考えられます。

献言書の内容は伝わっていませんが、今泉鐸次郎『河井継之助傅』によれば、内容は過激そのものでしたが逆に藩主・牧野忠雅に注目され「今の時局に用いるべき人材」と評価されたそうです。

嘉永6年に御目付格評定方随役に抜擢され、国元・長岡に戻ることになります。
◆藩政への最初の関与

翌嘉永7年、27歳の時に評定方随役に任命されて国元に帰ったものの、藩主から国家老に事前の相談が無く、まして「部屋住の若輩が重職に任命される筈がない」という理屈で国家老・山本勘右衛門に就任を拒まれます。

大目付・三間安右衛門も国家老に同調したので、河井継之助が評定所へ出仕しても任務を与えられませんでした。
陰湿かつ大人げないですね。

出仕後1ヶ月程度で河井継之助は職を辞するのですが、その際に藩政を弾劾する改革書を藩主に提出します。
すごい報復ですし、名指しで弾劾された方は面目丸つぶれです。

このことが河井継之助の心意気と、同時に裏腹の「剛腹な性格」を広く藩内に知らせることになります。

正しいと信念を持ったことに対して「真っ直ぐに激突する姿勢」に共感します。

安政2年(1855)6月29歳の時に、藩主・牧野忠雅の養嗣子(養子の家督相続人)である牧野忠恭(ただゆき)が初めて長岡入りした際には恒例により文武に秀でた者が御前で経史の講義をすることになっており、講師に河井継之助が選ばれます。
これを「御聴覧」と言います。

しかしながら、河井継之助は「自分は講釈をするために学問をしたのではない」と主張して講師を拒みます(当然、藩から叱られます)。
この頃が河井継之助の不遇の時代の始まりであり、30歳の時に三島鋭次郎(後の川島億次郎)と奥州各地を歴訪したり、読書したり、鉄砲をもって猟にでかけたりと「無為な時間」を過ごします。

この頃、「武士の家を『弓馬の家』というが、今後は『砲艦の家』といった方がよかろう」と述べたと伝わり、新時代を予見していたことが分かります。

武士が刀で斬り合う時代は終わった、ということです。


河井継之助が詠んだ七言絶句が伝わっていますが、「なるようにしかならん」という諦めの詩です。
十七天に誓って輔国(ほこく)に擬(ぎ)す

春秋二十九宿心(しゅくしん)踣(たふ)る

千載此(せんざいこ)の機(き)得べきこと難し

世味知り来った長大息(ちょうたいそく)

英雄事を為す豈(あに)縁無からんや

出処(しゅっしょ)唯応(まさ)に自然に付すべし

古(いにしえ)自り天人(てんしん)定数(ていすう)存(ぞん)す

好(よ)し酣睡(かんすい)を将(も)って残年を送らん
安政4年(1857)31歳の時に父・代右衛門が隠居し、河井継之助は河井家の家督を継ぎます。
翌年の秋、32歳の時に外様吟味役に任命され「北組宮路村の騒動」を解決します。
「北組宮路村の騒動」とは、庄屋の不正(ピンハネ)が「庄屋の当然の権利であるか否か」の争点です。

結果、河井継之助は庄屋と農民の双方の罪を認めることで収拾を図ります。
この経験を通して、当時の農村が抱えていた「賄賂の温床となる各種の制度疲労」の存在に気づき、後の藩政改革への具体的政策へと繋がっていくことになります。
◆師匠・山田方谷との出会い

安政5年(1858)12月27日32歳の時に再度の遊学願いが藩庁から許可され、翌日に江戸に向けて出立、翌安政6年(1859)1月6日に江戸藩邸に到着します(33歳になっています)。

以下がその時に詠んだ詩で、「恩書」は遊学許可証、「宿鬱」は謹慎中の4年間を指します。
時に恩書を得て宿鬱(しゅくうつ)空し

多年の雌伏又雄と為る

名を避け世を避くるは真に倣(な)し難し

始めて脱す樊籠(はんろう)困苦の中
樊籠とは鳥かご、「始めて脱す樊籠困苦の中」とは開放感半端ないですね。

河井継之助が安政6年(1859)4月24日付で両親に宛てた手紙には、備中松山藩・山田方谷の元で同藩の財政改革の実際を学ぶため、旅費として50両もの大金の無心をしています。

山田方谷は備中松山藩の執政ですが、出身は農民です。
河井継之助の師であった高野松陰や佐久間象山と共に朱子学から陽明学まで幅広い見識を持つ佐藤一斎門下の一人でしたので、全く縁が無いという訳ではありません。


松山藩5万石の藩主・板倉勝静は山田方谷を執政に登用し、藩財政の改革にあたらせました。
当然ですが、農民上がりの人間が武士に指図することや、武士に開墾(農民の真似)させることで、山田方谷は非常に大きな反発を受けますが、藩政改革を見事にやり遂げます。

両親宛の書簡には、山本帯刀(勘右衛門)と牧野市右衛門の家老2人が河井継之助に西国遊学を推奨しており、藩政改革の実務を学んで長岡藩で立身出世が望めると期待できると匂わせ、その2人の家老から西国遊学を認められ「登天の心地」「天の与えるところ」と感情を露わにしています。

この人には珍しい感情の発露です。

長岡藩から江戸留学にきていた花輪馨之進(けいのしん)(後の求馬)、三間市之進、鵜殿団次郎(うどのだんじろう)の3人が河井継之助の西国遊学を見送ります。
この見送りは横浜港の視察を兼ねており、横浜玉川屋で共に一泊しています。
花輪と三間は後の河井継之助の股肱(ここう)であり、鵜殿は軍制改革で河井継之助を助けることになります。

西国遊学の旅日記として名高い「塵壺(ちりつぼ)」ですが、これは旅での見聞を両親への土産とした132丁の日記から成ります。前述の安政5年(1858)12月の長岡出立から翌安政6月4日の久敬舎退塾までが前文になります。
紀行文の本文は3つのパート、即ち、
  • ①安政6年(1859)6月7日江戸出立から7月16日の備中松山到着までの各地の民情視察
  • ②山田方谷のもとで従学した日々の記録
  • ③方谷の留守中、四国・九州を見聞した紀行文
に分かれます。

その他、遊学中に読んだ書籍、金銭出納の控、山田方谷の語録などが記載されており、河井継之助の几帳面さを知る資料です。
長岡市立中央図書館に所蔵されています。
最近、山田方谷の元を去り山陰地方を旅行した書簡も見つかっています。


話が脱線しますが、JR西日本・伯備線(はくびせん)という路線があります。
中国山地を越えて山陰と山陽を結ぶ路線であり、山地を上るため急カーブが多い路線ですが、カーブでも速度を維持するための「振り子電車」でご存じの方も多いと思います。

この伯備線には「方谷駅」があり、おそらく当時も今もあまり変わらない「たたずまい」であると思います。
駅名の由来は山田方谷の名前ですが、駅付近にあった山田方谷の長瀬塾(実質は開墾屋敷)には河井継之助も訪れています。

河井継之助は山田方谷との最初の面談を父に手紙で伝えますが、その手紙には「農民山田安五郎」と書いてあります。
この表現にはいろいろな意見があり、武士である河井継之助からして侮蔑と言えば侮蔑に解釈出来ますが、私は「農民出身で藩政改革を成し遂げた事実に対する敬意」であると思料します。

山田方谷に入門の許しを求めた河井継之助ですが、実はなかなか入門が許可されません。
山田方谷は「教授する暇はない」と入門を断り続け、河井継之助も相当焦ったようです。

最終的に「我は先生の作用を学ばんと欲する者、区々(まちまち)経を質し、文を問わんとするにはあらず」といって、入門を許されます。
「先生の実務を肌感覚で吸収するので講義云々は必要ない、お側に置いて欲しい」ということであり、前述『李忠定公集』などの読書や、山田方谷との意見交換に時間を費やしたそうです。

まあ、山田方谷の「人の動かし方」や「藩政改革の実際」を肌で感じ、感動しきりというところだろうと。

山田方谷が藩命で備中松山を留守にしていた時期、河井継之助は西国を見聞しています。
その中でも、安政6年(1859)10月5日から13日間を長崎に滞在し、会津藩士・秋月悌次郎(ていじろう)の招きで共に唐館や蘭館などに外国人を訪ねています。

更に、幕府の船将矢田堀景蔵(けいぞう)と知り合いになり、幕艦・観光丸に搭乗するなどしております。
こうして直接外国に関する知識を吸収する機会に恵まれます。

この時に得た感想を義兄の梛野嘉兵衛宛に手紙で伝えていますが、
「天下の形勢は遅かれ早かれ大変動する。
攘夷などと唱えるものは愚かだ。
隣国との交際は大切にしなければならない。
我が長岡藩は小藩だが藩政をよく治めて実力を養うことが大切だ」
と述べています。

河井継之助が「長岡藩(藩士)の立場」を基軸として物事を見ている、ということが良く分かります。

合わせて、西国雄藩が近代産業国家へと変貌を遂げつつある雰囲気や外国人が当たり前のように往来している街の活気と、東国の北陸・関東・東北諸藩とのギャップを知り、将来西国諸藩が武力で東国や北国を圧倒するのではないかとの予感を抱き、長岡藩が自主独往のための富国強兵を実現するためには藩政改革が必要であると強く再認識したと思料します。

万延元年(1860) 3月34歳の時、遂に河井継之助は師匠の山田方谷の元を去りますが、その際に河井継之助は山田方谷の王陽明全集を4両で譲り受け、山田方谷は全集の空白に1,700字の送辞を記します。
公の書を読む者、その精神に通ぜず、その粗迹(そじゃく)に泥まば害ありて利なし、生の来たる、
その志は経済に鋭く、口は事功に絶たず、かの書を読み、
利を求めて反って害を招かんことを懼(おそ)るる
この送辞ですが、その後の河井継之助の人生を考えると実に感慨深いものです。

即ち、為政者・実務家としての河井継之助は「長岡藩のため」に最善を尽くし、(後述しますが)藩政改革を見事に成し遂げます。

そういう意味で山田方谷の「教え」は活かされました。

しかしながらこれはネタバレになってしまいますが、(後段で詳細に説明する)成功した藩政改革が最終的に長岡の地にもたらした顛末を考え合わせると、この藩政改革が「結果として長岡の地に害をなした」と見なすことが出来るのです。

「利を求めて反って害を招かんことを懼(おそ)るる」とは、見事なまでの山田方谷の予言だった訳です。

河井継之助が目指す藩政改革とは、備中松山藩の藩政改革とは目的が異なり、藩の富国強兵を実現するための「政治的手段」に過ぎなかったことを山田方谷は見抜いていたのですね。

継之助は王陽明全集と酒のみを肩にして、川を渡った後に対岸に立つ山田方谷に向かって河原で幾度もひざまずいてお辞儀をしたとのことです。
これまで見てきた河井継之助の人間性から見るとこの行動は極めて奇異に映りますが、深く師事した師匠に対する最大限の感謝の行動として河井継之助らしいと思います。

妻のすがの証言から、長岡に帰郷した河井継之助は山田方谷の書き物を床の間に掲げて毎日お供えをして平伏していたそうですから、よほど傾倒していたのでしょう。

山陰地方を周り、万延元年(1860)に江戸に帰り三度目の久敬舎入塾を果たします。

その後、文久元年(1861)夏、35歳の時に長岡に戻り、家老・牧野市右衛門宛に何度か藩政改革の意見書を提出しますが、文字通り黙殺されます。
門閥家老からしたら
「生意気な若造が!」
という感じでしょう、昔も今も改革抵抗勢力の非論理性は変わりませんね。

河井継之助36歳の時は江戸詰めでしたが目立った話がありません。
何をしていたのでしょうね。
◆混迷の時代へ

文久3年(1863)37歳の時、河井継之助は京都詰となり公用人として出仕し上洛します。
長岡藩主・牧野忠恭(ただゆき)は前年の文久2年8月24日に会津藩主・松平容保の京都守護職の下で京都所司代に就任していました。

公用人とは、京都所司代という閣老となった主君を補佐し、陪臣として国事を助けるための藩士を指します。
河井継之助と共に盟友の花輪求馬や三間市之進らが任命されています。

(補足)京都守護職と京都所司代

京都守護職は幕末に設置された役職で、当時の京都の治安維持を目的としました。
治安維持とは御所や二条城の警備ですが、京都市中について新撰組や京都見廻組が担当しました。
京都所司代は織田信長の時代に設置された所司代がベースであり、秀吉・家康と踏襲され、江戸時代以降は3万石以上の譜代大名が務めました。
朝廷や公家の監視、西日本諸大名の動静の監視、五畿内と近江・丹波・播磨の8カ国の民政監視が役割です。
要するに、京都守護職とは文久3年から始める「京都の騒乱」を収めるための暴力装置であり、京都所司代は西国を監視する役割であったということです。
河井継之助は「こうした京の情勢」を達観して京都所司代の職が容易でないことを悟り藩主・牧野忠恭に辞職を薦めます。
想像に難くありませんが、長岡藩は譜代藩の立場にあるので
「主君が名誉な職についたのに辞任を薦めるとは何事か?」
というステレオタイプ的な反論が門閥からあったでしょう。

河井継之助は失望し公用人を辞して長岡に帰国しますが、最終的に牧野忠恭は翌年の文久4年6月11日に京都所司代を辞任するので河井継之助の主張が通った形になりました。


文久3年(1863)当時の京都と言えば「8月18日の政変」が有名です。
長州藩を中心とする尊皇攘夷派が孝明天皇の大和行幸を機に天皇を擁して討幕軍を起こす計画を立てていたところ、これを察知した薩摩藩の国父・島津久光が会津藩や朝廷内の公武合体派と密かに通じ、御所を軍勢で囲み行幸を中止させ、合わせて三条実美を含む急進派の公家らを追放した出来事です。

この事件で京都における長州藩の優位が覆りますが、翌文久4年6月の新撰組が名を馳せた池田屋事件をきっかけとして長州藩は京都へ出兵し、7月に禁門の変で会津藩・薩摩藩と戦火を交えることになります。

こういう京都の情勢ですから、
「幕命かも知れないが、わずか7万4千石の小さな長岡藩が関与しても百害あって一利なし」
と河井継之助が主張することに一本の合理性があります。


元治元年(1864)の春、38歳の時、河井継之助は物頭格御用人兼公用人となり江戸詰となります。
江戸出府と同時に、藩主・牧野忠恭の老中職就任について痛烈な意見書を提出します。

実は、前述のように、藩主・牧野忠恭は文久4年(1863)6月11日に京都所司代を辞任しますが、幕命で同年9月13日に老中に就任しておりました。

老中は莫大な交際費がかかる要職ですので、藩財政の面から「良いことはない」ということです。

京都所司代の次は老中です。
意見書の主旨は京都所司代辞任建言と同じであり、
「長岡藩牧野家にいかに徳川譜代藩としての立場があろうとも怒濤の時代背景に照らせば幕閣である老中就任などもっての他、今は藩を豊かにすべき時である」
というものです。

河井継之助は藩の重役連中を論破しますが、元治元年(1864)5月19日に長岡藩の支藩(親戚筋)であるの笠間藩主・牧野貞明に
「藩主・牧野忠恭の老中辞職が長岡藩のためになる」
と主張し、ついには笠間藩主・牧野貞明に対して論破を通り越して痛罵(つうば)してしまいます。

相手は大名・お殿様ですから主君・牧野忠恭も「さすがにまずい」となり、河井継之助を退席させ長岡への帰郷を命じるしかありませんでした。

なお、7月11日には佐久間象山が暗殺されます。
ちょうどこの頃ですが、江戸詰めの時に横浜の外国人居留地に足繁く通い、後に洋式武器を購入することになるスイス人のファーブル・ブラントや(正確に国籍が分からない)エドワード・スネルと親交を深めたそうです。

攘夷真っ只中の折に、直接国際情勢や軍政等の知識を蓄えています。
小説「峠」では、ファーブル・ブラントが母国スイスの永世中立制度の話を河井継之助にして、そのことも後の「長岡藩中立路線に影響した」と書いてありましたが「ほんまかいな?」と。


長岡に帰郷した河井継之助は悲慣の詩を詠んでいますが、その内容は
「ペリー来航以来の国事を憂い、今後は国家体制を刷新し文武建国をめざして、四民(士農工商)を平らかに治める」
というもので、まさに陽明学にいう経世済民です。

当時は幕藩体制下であり、しかも尊皇攘夷が主流の時代にこうした慧眼持っていた河井継之助の凄みを感じますし、もっと広く知られてよいと思料します。

こうした慧眼は、後の長岡藩の藩政改革に具体的に活かされていくことになります。


元治元年(1864)には義兄の梛野嘉兵衛宛に書簡で長州征討の非を説いています。

長州征討は、元治元年(1864)の禁門の変を起こした長州藩を処罰するための江戸幕府の出師(すいし)ですが、この長州征討の成否をいち早く予見し、征討が失敗して幕府の威信が失墜することで「第二第三の長州藩」が出てくることを予見しています。

書簡では尊王攘夷論者の愚かさを嘲り、前年に外国船を攻撃した薩長両藩の無謀に憤慨し、開国主義による富国強兵こそが第一義だと述べています。

長州藩は文久3年と4年の下関戦争で外国列強の強さを思い知り、薩摩藩は文久3年の薩英戦争で英国に大敗します。

その後、密かに「攘夷方針を180度転換した」ことは歴史の事実ですが、流石の河井継之助も知るよしがありません。

河井継之助は先を良く見抜いています、惚れ惚れします。

しっかし、文久3年が「こんなに大変な年だった」とは、書いていてあらためて気がつきました。
◆藩政改革に向けて

慶応元年(1865)、河合継之助39歳の時、外様吟味役になり山中事件を見事に収めます。

文久2年(1862)12月に幕府領から長岡藩領と「鞍替え」になった刈羽郡山中村において、以前から小作人と庄屋の間の争いや、庄屋徳兵衛の「家の内紛」があったのですが、歴代の代官や郡奉行が解決出来ずにいました。

これは想像ですが、安政5年(1858)の河井継之助32歳の時に外様吟味役に任命されて「北組宮路村の騒動」を解決しておりますから、「山中村もあいつにやらせてみよう」という風になったことは容易に想像が付きますし、素直に役を受けた河井継之助側も山田方谷の元で藩政改革の実学を積み上げてきた実績から明確な勝算があったのでしょう。

河井継之助は外様吟味役に就任すると関係者一同を長岡に召喚して精査し、情理を尽くして双方を説得しました。

双方が出訴を取り下げるやいなや、庄屋と農民の双方を喧嘩両成敗の形で罰し、この難事件を解決させます。

この喧嘩両成敗というところが「どちらも傷つかない、分かってらっしゃる」という感じですね。

通常、庄屋と藩の役人は「賄賂利権で繫がっている」ので、訴訟を裁く藩からして「庄屋に肩入れしやすい」のが通例であり、それゆえに争議が収束しないのです。

この功により、藩主・牧野忠恭の信任を受けた河井継之助は、慶応元年(1865)10月13日、これまで3席であった郡奉行に1席を増設された「4席目」に抜擢され、藩政改革の主人公として表舞台に正式デビューします。



郡奉行就任後、河井継之助は農村各組の代官一同を評定所に呼び出し、賄賂の全面禁止を宣言して同意を得ます。

次に村役人たちの賄賂廃止を行うためには庄屋の「姿勢の矯正」が必要と考え、領内各組の庄屋たちを自らの家に呼び出して、自らの考えを直接伝えます。
庄屋たちは恐縮し、贅沢をあらためたとのことです。

更に、河井継之助は贈賄目録を作成しており、それは贈賄者(村役人や商人)の名前と、金銭・日用品の類が記されていたとのことです(残念ながら目録は現存しておりません)。
想定の範囲内ですが、いかにも徹底的にやりそうですね。

今泉鐸次郎『河井継之助傅』によると、政治がよくない理由は、この数十年来、藩幹部である家老や奉行に「人材がいないから」であると主張しています。
その上で、身を越えた贅沢をやめて人材を広く登用し、賞罰を明確にすべきだと主張したとのことです。

こうした中でも何とか今まで藩財政を維持出来たのは、豪農出身の勘定方取扱元締・今井孫次郎と田辺与惣兵衛の両名の働きと、勘定頭・村松忠治右衛門の根気と、元来から豊かな長岡藩領によるものとしています。
裏を返せば「その他の昔からの藩幹部や悪癖は無能・邪魔」という考えが透けて見えます。

藩財政の立て直しにおいて、嘉永2年(1849)には23万両あった藩の借財が安政改革を経ても未だ14万両もあり、更なる藩財政の立て直しが急務でした。

村松忠治右衛門を勘定頭にあげて権限を持たせることで、勘定方の旧弊を改めさせたようです。

「ようです」
と歯切れが悪いのは、今泉鐸次郎『河井継之助傅』に「改革項目の羅列」はありますが、具体的な対応の記述がないからです。
村松忠治右衛門の『思出草』にも具体的な記述がありません。

以下、民政改革において明確な話のみ触れます。

〇検見制の改革

長岡藩は納税判断に「検見制(けみせい)」を採用しています。
検見制とは、収穫を前に郡奉行や代官が各村の庄屋屋敷に出張して米の収穫予想を行うというものですが、検見にかかる費用は村の持ち出しとなり饗応接待の費用は莫大、更には不正の温床となっていました。

村の方からも慶応元年(1865)7月に検見制を庄屋屋敷ではなく農村各組の御蔵役所で行う改革の申し入れがありましたが、藩庁から却下されています。
河井継之助が郡奉行となり検見制の問題をとりあげ、慶応2年(1866)8月3日から検見を農村各組の御蔵役所で行うように通達しておりますが、同時に検見制の悪しき風習が明らかになりました。

そりゃそうです、収穫量の高低を「饗応を受ける郡奉行や代官が決める」のですから、税を低くしたい庄屋は役人と癒着して、その結果が「低税収と贈賄と饗応」になる訳です。
子供でも分かる「悪しき風習」ですが、公私混同の役人にとって、「藩(公)のため」よりも「自分(私)を優先する」ことは当然です。

〇軽犯罪者の更正施設(寄場)の創設

河井継之助の言葉で「飲んだくれ・賭博犯・親子虐待・喧嘩人」といった入所者に仕事を与え、町人は仕立や大工左官を、農民はわら仕事などをさせたそうです。
賃銀は相場の半額で請負いますが、報酬の一部を積み立てて放免の際に持参させて更正を促進させました。
寄場へ出入は非常に緩く、夜十時過には外出自由を認めていましたが、翌朝の七ツ(午前4時)には必ず寄場に戻っているように厳命し、戻らない場合には打首に処すると定めていました。

実際、刻限までに寄場へ戻らなかった入所者を徹底的な捜査で探しだし、定め通り打首に処しました。
その後、刻限を守らない者は出なかったと伝わります。

〇社倉(しゃそう)の徹底

社倉とは、不作に備えて米備蓄を行うスキームです。

長岡藩領には信濃川が流れており、洪水が発生すると収穫が皆無となり民衆が苦しんだ経緯があります。
このため古来より各村に社倉を設けて凶作のための対策をしていましたが、長年の間に形骸化していました。
河井継之助は「互助の考え方」を村々に徹底させます。
「考え方」ですね。

〇中之口川の改修工事

信濃川から分流して再び合流する中之口川は長岡藩領と村上藩領を流れており、「信濃川から『信濃川と中ノ口川』に分流する」分流口は80間の広さでしたが、一方の「『信濃川と中ノ口川』が信濃川に合流する」合流口は30間の狭さでした。
合流口が分流口よりも「狭い」ため、合流口での容量オーバーが「合流口での長年の水害の原因」となっていました。

慶応元年(1865)9月、長岡藩に隣接する村上藩が幕府の許可を得て分流口を「80間から30間に縮める改修工事」を行おうとしたところ、隣接の新発田藩領の領民の反対にあい、改修工事を頓挫せざるを得なかった経緯がありました。
郡奉行である河井継之助は、慶応2年2月、村上藩兵および長岡藩兵合せて150名を分流口の工事現場に出兵して半ば強引に改修工事に着工します。
工事は両岸より埋め立てを始め、2ヶ月後の慶応2年4月に完成させます。

この改修工事により、合流口での水害リスクが軽減しました。

〇遊廓の廃止

河井継之助を語る上で、もっとも「ユニーク」なエピソードになります。
これまで触れてきたように河井家は比較的裕福であり、河井継之助も「いいとこのお坊ちゃん」の雰囲気がありますが、江戸留学時代は「無類の吉原好き、遊女買い」で知られていました。
現在感覚の「善し悪し」は別として、江戸時代までの日本人は「性におおらかであった」と思料します。

その河井継之助が「遊郭廃止」を言い出すのですから、業界関係者は仰天した筈です。

確かに、遊廓は民政にとって「不健康・不道徳」という当時の大義名分があると思いますが、一方で、遊郭を生業(なりわい)としている楼主や娼妓たちの都合もおもんばかり、楼主の転職や、娼婦が故郷に帰る資金の支援を合わせて公表します。
娼婦は、家の貪困から売られてくる非人道的な慣習に成り立っていましたから、陽明学徒である河井継之助が当時まだ存在しない「人権」という観点で社会改革を断行したことに驚きます。

洒落た落首(らくしゅ)があります。
河井河井(かわいかわい)と今朝までおもひ、今は愛想も継(つき)之助

〇禄高改正

これは兵制改革を断行する上で、最も重要な施策になりました。
藩士の禄高を百石前後に統一したというものです。
藩士の石高を百石前後に平準化する目的は、藩の兵制を「槍・刀から鉄砲中心の洋式に変更する」ためです。

伝統的な武士の兵制は家単位での兵力準備が基本であり、命令一下で集合・展開を行う洋式調練とは相容れないものです。
まして、自分より身分が低い者に命令されることは、これまでの伝統的な兵制においてありえません。
大砲を操作する士官を門閥出身者「のみ」とすれば機動的ではありません。
能力主義を推し進めるため「平準化」は不可欠な施策でした。
村松忠治右衛門の『思出草』に、「西洋軍陣の法則を用ひ、大砲小銃を以つて敵に応ずる」ために「戦士の俸禄は平均」すると記述されています。

兵制改革について簡単に触れます。
長岡城の西の中島に操練場を造成し兵学所もそこへ移しました。
射的場は百間の大きさで、藩兵をフランス兵制の三個大隊に組織して調練を行いました。
兵制改革は幕府の蕃所調所(ばんしょしらべしょ)教授となった盟友の鵜殿団次郎の意見を採用しています。

藩兵の各戸に一挺ずつミニエー銃を配備しました。
兵器は河井継之助と江戸留学時代に親交を深めたエドワード・スネルやファーブル・ブラントから購入しております。
このように長岡藩の兵制改革は短期間で成功している訳ですが、ファーブル・ブラントから購入した書籍からの知識によるところが多いと考えられています。
慶応3年(1867)9月の受領証に歩兵操練書・地理書・施條銃論などを8両1朱と300文で購入していることが判明しています。
元掛川藩士の福島住弌(すみいち)は、河井継之助が横浜のファーブル・ブラントの商館でフランス式の兵制や兵器を研究している所を目撃したと後年語っています。
その他、賭博禁止や川税廃止、豪農や豪商とのハードネゴなどあり、慶応3年(1867)暮れに剰余金高は9万9千9百60両となっていました。

河井継之助は41歳になっています。

時代は動乱となり、河井継之助も人生最終章を迎えます。



今回はこの辺で。