第11回 |コラム澤口 「立場と役割②」           

一般社団法人 日本事業戦略総合研究所(co-founder)、理事の澤口です。
全12回シリーズで、個人的に興味深かったことについて、自由気ままに書き綴って参りますので、お時間がある方はお付き合い下さい。


今回の第11回のお題は「立場と役割②」です。
前回からの続きです。

いよいよ動乱の時代に突入し、河井継之助は人生最終章を迎えます。
◆混迷の時代に

慶応3年(1867)10月14日、京都二条城において江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許します。世に言う「大政奉還」です。

長岡にいた河井継之助は大政奉還の報に接するやいなや、藩主のいる江戸へ急行します。
そして先君・牧野忠恭と現君・牧野忠訓の二君に進言をします。
その内容は

「天下の大勢は一変しました。
この時勢に譜代の長岡藩が傍観するのみでは徳川氏に義理を欠き、王臣の道にも背くことになります。
牧野家は老中や京都所司代の要職を務めておりますので、上京して公武(朝廷と幕府)を取り計らいましょう」

というものでした。

二君はこの進言を受け容れて現君・牧野忠訓の上洛を決定します。
しかしながら在府していた鵜殿団次郎他は諫めます。
今、長岡藩が京都にのこのこ行ったところで状況は何も変わらないという見立てです(当然だと思料します)。

結局、10月25日に現君・牧野忠訓を擁し、藩士60名余は幕艦順動丸に搭乗し西へ向かい、29日朝に兵庫に上陸、その日に西宮に泊り、翌30日に堂島の大坂蔵屋敷に入ります。

なかなか素早い動きですが、前述の通り鵜殿団次郎の主張が圧倒的に正しく、まかり間違えば長岡藩に火の粉が降り注ぐ危険がありました。

当時の京都や大坂には俄か勤皇志士の浮浪が跋扈(ばっこ)しており、一様に高下駄、長刀、袴をたくしあげて肩をいからせて歩いていましたし、辻斬りも頻繁に発生していました。

河井継之助は藩士に対して
「万一暴徒に襲われても騒ぐな。斬られれば黙って斬られろ、それが『長岡藩が朝廷に対する誠意だ』」
と戒めたと言いますから、大変な覚悟でもあります。

そのような時局に「こうした行動を取る」ということは、長岡藩の譜代藩としての立場を重視した行動です。

鵜殿団次郎の主張ですが、これは「リスクリターンに基づく考え方」であり、これも至極普通の間違いない対応です。


12月22日には、河井継之助は藩主名代として参与役所にて建言書を奉呈します。
建言書の内容を一言で要約すれば
「長岡藩が公武の間に入り、徳川氏を弁護し、再び政権を復すことこそ道義」
と説いたものと伝えられています。

大政奉還の直後で新政府が樹立した時期であり、他藩が時勢を「日和見している」中、更には水面下で戊辰戦争につながる軍事クーデター=武力倒幕が進行している状況において大胆不敵といって良い内容です。
実際、河井継之助自身も受理されるかを不安に思っていたようで、受理されると素直に喜んでいます。


河井継之助が参内した御所の参与役所は、先年まで現君・牧野忠訓が京都所司代として詰めていた「鶴の間」でした。
次室に詰めていた際に薩摩藩士が宮中を徘徊する様をみて、河井継之助は
「実に朝典(ちょうてん)を汚し候儀と切歯(せっし)に堪えず」
と述懐しています。

時代が変わったと言えば聞こえが良いですが、こういう所に驕りが見える訳です。
まあ、動乱の(ただの?)軍事クーデター前夜ですから。


河井継之助は大坂城にて老中である備中松山藩主・板倉勝静(師匠の山田方谷を登用したお殿様)と2回面談し、
1回目は
「朝廷へ上奏する長岡藩の建言の是非」を、
2回目は
「幕府軍の自重について」を
建言しております。

「戦うよりも一日も早く関東に引き上げ、まず内政を治め、時機を待つべきである」
と進言します。

仮に戦うとしても京を守る新政府側の兵は高々5,000人に過ぎず、大津ロ・丹波口その他4辺の要路を絶てば糧食窮乏となり自ら潰えると進言しました。

伝統的な「京都包囲作戦」です(京都は守りに弱い土地です)。

板倉勝静は「総論賛成」の立場を示すものの、河井継之助に対し、自らがもはやコントロール出来ない幕府内強硬派の平山図書頭を訪ねるように指示し、合わせて戦備を急ぐ会津藩士や桑名藩士の説得をさせようとします。

しかしながら、怒りに駆られている彼ら武人が、勝算が高いにせよ(消極的な)河井継之助の京都包囲作戦に耳を傾ける筈もありません。

この後、板倉勝静は「東軍の将」として函館まで従軍して戊辰戦争を戦い抜くことになるのですが、このことで備中松山藩の執政である山田方谷は苦しい藩の舵取りを迫られることになります(河井継之助とは関係ないので触れません)。



そうこうしている内、明治元年(1868)1月3日、河井継之助42歳の時に遂に鳥羽伏見の戦いの戦端が開き、幕府は朝敵となり、徳川慶喜や会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬、備中松山藩主・板倉勝静らの指導者は「夜陰に紛れて大坂城を脱する」という暴挙に出ます。

本人達に言い分があると思いますが、当時の大坂城の軍勢陣容では「負けることはない」というのが後世の通説ですので実にあっけない幕切れであり、趨勢が決しました。


鳥羽伏見の戦いにおいて長岡藩は幕府側に属し、大坂玉造玉津橋の警備を担当します。
敗戦が決定すると、河井継之助の指揮の下、現君・牧野忠訓と藩兵は大坂城に入り、次いで7日大坂を脱し、大和路から伊勢へ出て、松坂より海路、三州吉田を経て、江戸藩邸に向けて退去します。


河井継之助は2月末日か3月初め頃に、江戸の大槌屋において会津藩・桑名藩・唐津藩や東北の諸藩の藩士らと集まり、今後の方針について話し合いも持ちました。
その時の各藩の「煮え切らない態度や意見」に憤慨した河井継之助は「我藩独守封彊(どくしゅふうきょう)のみ」と発して一人退去します。

「長岡藩は独立してその領土を守る」と発言した訳ですが、この発言が長岡藩の独立論、引いては武装中立路線と見られる一要因となりました。


河井継之助は江戸を撤収して長岡に帰国する準備を進め、江戸藩邸の財宝などを売りさばき銃器を買い込みます。
3月3日には藩士一同に総引き揚げを命じております。

江戸藩邸の呉服橋の上屋敷から裏門にあたる水門を伝馬船(てんません)に乗り、品川沖に停泊しているエドワード・スネルが手配したアメリカ汽船に乗り込みます。

「あの」ガトリング機関砲も、このときスイス人のファーブル・ブラントから三門中二門を買い込んでいます。
品川沖から、箱館(函館)を経由して新潟~長岡に戻りますが、江戸で購入した米穀を箱舘で売り払さばき、合わせて江戸の銅銭を新潟で売り裁いて大儲けをしています。

これは「函館で米不足で価格が高騰している」情報と、「新潟で銅銭が不足している」情報を事前に察知しての裁定取引でした。

こんな状況で「そこまで目配せが出来る」河井継之助に驚嘆しませんか?
◆紛糾する藩論

河井継之助が帰藩する前の慶応4年(1868)2月、「新政府の勅使が越後に来る」との報があった際に、藩庁内で勅使を護衛する薩長藩兵と戦う方針が示されます。

これに対し藩校崇徳館(そうとくかん)の伊藤幹蔵(かんぞう)・山田愛之助・酒井貞蔵・陶山善四郎らが名分論を主張して恭順派の主流となり、重臣のなかでも安田鉚蔵(りゅうぞう)・花輪彦左衛門(後述の小千谷会談で出てきます)らも恭順派に同調します。

他にも河井継之助に職を追われた元筆頭家老・稲垣平助、藩儒の小林虎三郎、河井継之助の盟友である川島億次郎も恭順説を唱えています。

3月22日、元筆頭家老・稲垣平助や重臣・安田鋤蔵の恭順派の中心は、先君・牧野忠恭や現君・牧野忠訓に恭順説を直接進言しています。

この対立の底流には、陽明学徒である河井継之助と、藩本来の教養である朱子学を教える藩校崇徳館との対立軸がありました。


河井継之助が長岡藩に帰藩し幾日も経ていない慶応4年(1868)4月17日、全長岡藩士に総登城を命じ、本丸大広間で所信演説を行います。
観山公(牧野忠訓)御出座、河井氏側にあり、公に代りて諸士に説く、其略に日く、今般姦臣天子を挟んで、幕府を陥れ、御譜第の諸侯、往々幕府に背て薩長に通ず、大に怪しむに堪へたり、余小藩といえども、孤城にこもりて国中に独立し、存亡ただ天に任せ、以て三百年来の主恩に酬ひ、かつ義藩の喘矢(こうし)たらんと欲す。
気概の塊ですが、喘矢とは「物事の初め」の意味であり、「義藩の喘矢たらんと欲す」との「義藩の先駆けとなる」に本音があると思料します。

「天子をたぶらかして徳川を陥れた薩長に義はない」
「鳥羽伏見以来、日和見の親藩や西軍に寝返った譜代藩(彦根藩等)に義はない」
ということです。

藩論は河井継之助の中立路線一色に染まり、恭順派は顔色を失います。
中立路線とは、西軍にも奥羽越列藩同盟(会津藩が首魁)のいずれにも組しない武装中立です。
事実、長岡藩は会津藩の軍事行動に一切協力せず、同藩兵が長岡藩領に入ることを拒絶しました。

このことが後に会津藩を苛立たせることに繫がります。


挙げ句の果て、恭順派による河井継之助の暗殺が計画されます。

決行当日、月が明るい夜道を懐中で腕を組み王陽明の詩を朗々と詠いながら歩く河井継之助の迫力に圧倒され、刺客は切りつけることが出来なかったと伝わっています。

河井継之助本人も暗殺計画の存在に薄々気がついていたようで、「そんな度量の持ち主はいないだろう」と語っていたそうです。

後日、恭順派の巣窟である藩校崇徳館内に一軍の兵を駐屯させ、恭順派の活動を完全に封じ込めています。
恭順派の中には、藩命に従いその後の北越戦争で命を散らした人が数多く存在します。
◆西軍が越後へ

慶応4年(1868)4月17日、遂に西軍(北陸道鎮撫使一行)が既に恭順していた越後高田藩に到着し、19日には参謀の薩摩藩士・黒田良介(清隆)・と長州藩士・山県狂介(有朋)も着任します。

北陸道鎮撫使一行の高倉総督は、北越11藩の重臣を招集して勤王と西軍への恭順を要求し、特別に長岡藩に対してのみ「出兵もしくは5日以内の金3万両の献金」を要求しました。

この時の長岡藩の正使である植田重兵衛は帰藩後に河井継之助に子細を報告しましたが、河井継之助は「一切の責を負う」と言い要求を黙殺します。


黒田良介と山県狂介は「軍事行動は薩長の合議で行うこと」を確認し、4月20日の作戦会議において「長岡城攻略をもって作戦の目標とする」ことを全軍一致で決定します。
4月21日、西軍は山道軍と海道道の二手に分かれて高田を発して、進軍を開始します。
  • 山道軍:
  • 薩長に信州諸藩の兵を加え総勢2,500人
  • 【軍監】岩村精一郎(土佐)
  • 【参謀】杉山荘一郎(長州)、白井小助(長州)
  • 海道軍:
  • 薩長に北陸諸藩の兵等を加え総勢1,500人
  • 【軍監】三好軍太郎(長州)
  • 【参謀】黒田了介(薩摩)、山県狂介(長州)
山道軍の進軍は早く、4月28日には小千谷(おじや)と、長岡に通じる戦略拠点である榎峠(えのきとうげ)も制圧します。

河井継之助が
「めだか(長岡藩)がシャチ(奥羽諸藩連合)とクジラ(西軍)の調停役を果たす」
とした中立路線を果たす時がやってきた訳です。

河井継之助は4月26日に家老上席兼軍事総督に任じられ長岡藩の全権を掌握します。
先君・牧野忠恭と現君・牧野忠訓による異例の抜擢によるものですが、総督となり5家の家老職の上に位置する上席家老となりました。
◆小千谷会談

前述の「峠 最後のサムライ」のクライマックス場面になると思いますが、結果は非常に残念かつバカバカしい限りなので、コラムを書く方も気が滅入ってしまいます。

5月2日の正式会談に先立ち、河井継之助は花輪彦左衛門を使者として下交渉をさせていますが、その報告は「本陣で歓待された」という内容でしたので、会談に臨む河井継之助も好印象を持っていたでしょう。

ただ史実的に
「花輪彦左衛門が誰と面談し」
「どのような面談内容であったか」
は伝わっておりません。

当日、小千谷から一里ほど上流の片貝村で西軍と会津藩兵の衝突があり、河井継之助が小千谷に到着次第開催される筈の会談がしばし延期されることになりました。

待つこと2時頃ですが、西軍の迎えが来て案内されたのが慈眼寺(じげんじ)という古刹(こさつ)です(HPがあります)。
慈眼寺の参道の両側には殺気だった西軍兵士が取り囲んでいたそうでして、先ほどの片貝村での軍事行動の雰囲気さながらだったそうです。


会談は、同行した軍目付(いくさめつけ)の二見虎三郎を別室に控えさせ、河井継之助一人に対して西軍側は
「軍監:岩村精一郎(土佐)、渕辺直右衛門(薩摩)、杉山荘一(長州)、白井小助(長州)」
の4名であり、河井継之助は嘆願書を出して説明しますが、全く話合いになりません。


ちょっと長いですが、嘆願書の現代語訳(出典:河井継之助記念館・展示パネル文、『河井継之助傅』記載の嘆願書の現代語訳)を掲示します。
この春、朝廷から徳川家を追討するご命令がありましたが、私ども、今まで、臣下の一人として仕えました者としては、恩を忘れて主君に鉾(ほこ)を向けることなど、決して出来るものではありません。

現在の諸国の大名の態度を見ておりますと、日本国が従来から持っていた「人の道を守る心」は捨て去られたように思えます。

私は、領内の人民十余万人が「職業に精励して経済が豊かになり」「安心して生活出来るようにすること」が天職だと思っています。

それぞれの藩がそのように考えることが、引いては国全体の平和と繁栄につながることでしょう。

そんなことも分からない人たちが戦争を仕掛けてくるのであれば、義理を守り、力を尽して戦い、滅亡しても仕方のないことだと覚悟しています。

しかしながら、強い方に付こうと日和見の態度をとって、戦いに巻き込まれて領民を苦しめ、藩も滅亡し、汚名だけ残すこととなれば、もっと申し訳のないことだと思っております。

私どものような小藩でも、一致して倹約につとめ、産業を興(おこ)せば、三年のうちには海軍を備えることも出来ましょう。

それなのに、このような情勢となって、いたずらに戦争によって領民を苦しめ、農作業を妨げ、国を疲弊させてしまうのは、本当に悲しむべきことです。

このことは既に、朝廷にも徳川氏にもご意見申し上げたのですが、どちらからも回答はありませんでした。そこで、私はやむを得ず、ただただ領民の平和を維持することに専念しているのであります。

このようなことを、私どもは決して一藩のためだけに申し上げているのではありません。

今こそ、日本国中で協力し、世界の恥さらしにならないような強国をつくり上げることが大切です。

情勢は切迫していますから、この真の心をぜひご採用になっていただければありがたく思います。

慶応4年5月
牧野駿河守
要するに「西軍が掲げる勤王・王道とは何か?」「今は藩単位の争いではなく挙国一致した富国と新興に勉めなければならない時であるのに、会津藩を討つことに固執する意図は何か?」という、軍事クーデター側の論理矛盾を問いただしている訳です。

全く話合いにならなかった理由ですが、後世の推論を大別するとこんな感じです。
  • ・実は、軍監である岩村精一郎に決定権がなかった
    (参謀の淵辺直右衛門、杉山荘一郎にあった)
  • ・西軍の大義である「会津藩を討つこと」は長州藩の私怨であり、その矛盾を河井継之助が詰問した
  • ・この詰問への返答に窮し、出席者が感情論をぶちまけてしまった
    (若さゆえ・・・の話)
  • ・西軍にとっては会津藩との戦いがメインであり、長岡藩には「恭順か敵対」の選択肢しか用意していなかった(河井継之助の主張に狼狽した)
  • ・そもそも長岡藩と戦う予定がなかった
    (長岡藩が早暁に恭順を示すと思い込んでいた)
後世まで生き残ったのは岩村精一郎と白井小助の2名であり(渕辺直右衛門は西南戦争で、杉山荘一は萩の乱で戦没)、岩村は言い訳がましい著述がありますが(馬鹿馬鹿しいので触れません)、白井は(長州側の不手際として)山県に口止めされたのか生涯黙して語りませんでした。

品川弥二郎に至っては、後に男爵になった岩村精一郎を「小僧」と吐き捨てました。


よく接する意見に
「河井継之助と会談したのが、弱冠23歳の経験がない岩村精一郎ではなく、薩摩の黒田了介か長州の山県狂介であれば・・・」
というものがありますが、私は賛成しかねます。

そもそも、当日の片貝村での会津藩兵(あの「鬼官」こと佐川官兵衛が指揮)の軍事行動は明らかに陽動作戦であり、
「長岡藩兵の旗印である『五間梯子(ごげんばしご)』を片貝村に置き捨てた=会津と長岡が共闘しているエビデンスをねつ造した」
という話があり、更には長岡藩の軍事責任者(総督=全権掌握者)が西軍と会談する事実が会津藩に漏れているという河井継之助の大失態もあると思料します。

当日、小千谷の西軍に直談判に来ている軍事責任者が
「陽動作戦を裏で画策して会談を行っており」
「仲裁してやってもいいと主張している」
と西軍に考えられても不思議ではありません。

最も重要なことは、4月下旬に長岡藩は西軍から「出兵もしくは5日以内の3万両の献金」の要求を突きつけられているにもかかわらず、本小千谷会談までの間に河井継之助(長岡藩)が西軍に「明確な返答を行っていない」ことです。

当該陽動作戦の影響度を度外視しても、河井継之助が
「めだか(長岡藩)がシャチ(奥羽諸藩連合)とクジラ(西軍)の調停役を果たす」
とかねてから話しているように
「会津藩と西軍の仲を取り持とう、会津を討つ義とは何か?(私怨だろ?)、民を苦しめて何が王土だ」
と主張を展開しており、おそらくは前年12月22日に藩主名代で御所参与役所に参上した時の見聞
「実に朝典(ちょうてん)を汚し候儀と切歯(せっし)に堪えず」
や、
「義藩の喘矢たらんと欲す」の語感もあったでしょう。

河井継之助の方も
「コミュニケーションなさ過ぎ、言葉強すぎ」
と思料しますが、その根底に西軍を軽く見ていたと思料します。

なぜか?

それは河井継之助が西軍を
「公武合体から変質した『義がない私的なクーデター軍』である」
と見破っているからです。
これでは、時流に乗っただけの(小僧の)岩村精一郎を責めても仕方ないと思料します。


これは歴史ifですが、もし黒田了介か山県狂介が河井継之助と面談していたら・・・、

時間を掛けつつ議論を尽くして河井継之助と対話し「長岡藩」の懐柔を目論むか、もしくは河井継之助を捕らえて軍事統帥権を奪い、長岡藩の軍事統率を弱体化させて北越戦争を回避までも軽減させることは可能であったと思料します。

いずれにせよ西軍の「会津藩討伐ありき」の中では西軍側に組み込まれた長岡藩は間違いなく「会津藩討伐の先兵」にさせられた筈ですから、何が正解かなんて分かりませんね。


会談当日の夜と翌朝、河井継之助は西軍本陣前で軍監岩村精一郎との再会談を願い出ますが、結局聞き遂げられることはありませんでした。

河井継之助として「会津藩にしてやられた」の後悔と、中立路線の裏付けである「西洋近代兵制」が皮肉にも会津藩を苛立たせたことへの無念、我が意見である「挙国一致して新しい国を造りあげる」方針に耳を傾けない西軍への失望があったと思料します。


誤解の無いように、この時点で西軍との軍事衝突が決定的になった訳ではありません。

小千谷での会談が決裂した後、河井継之助は盟友の三島億二郎と面談し
「会談は決裂したが、自分の首と金3万両をもって西軍との戦いを回避して欲しい」
と懇願します。

今泉省三著『三島億二郎伝』に三島億二郎の長男三島徳蔵の話があります。
五月二日、河井氏は小千谷に於ける岩村監軍との談判不調に終り、帰路信濃川を渡り、老父億二郎の駐屯せる前島の庄屋宅を尋ねられた。

その時の話は極めて、重大事件であったと見えて、門前に大川市左衛門を見張らしめ、付近に何人も近づくことを許さずして、両人は川端に赴き、密談数刻に及んだということであるが、河井氏は欣然(きんぜん)老父の手を握って、これで安心した、闔藩(こうはん)人なきに非ざるも、予のため藩のため、働く真の丈夫は、君を措(お)いて他になし、事、慈(じ)に至る、ともにともに一死以て、藩公に報ずるところなかるべからずと、両人は前日の仇怨を忘れ、快善として堅い握手をした。
「慈」とは「真の友情」を表し、「慈に至る」とは「堅い信頼関係を築いた」という意味です。

確かに「首と金3万両」を持って行けば西軍との戦いは避けられたでしょう。
当時の殆どの藩は、大小の差無く「恭順一色」ですから、「長いものに巻かれろ」ではないですが「西軍への恭順」は立派な選択肢の一つです。

あえてスルーしましたが、越後の高田藩は長岡藩と同じ譜代藩ですが、早くから新政府=西軍に恭順の意を表明していたので高田藩兵は西軍に従軍し長岡藩兵と戦いますが、高田藩領が戦火に巻き込まれることはありませんでした。

「そういう選択肢を採択した」ということです(私見ですが、新潟県上越市(かつての高田市)が発行する「戊辰戦争に関する文書」を読むと実に「歯切れが悪い」です)。

意見や価値観の相異があるとは言え、三島億二郎が「長年の盟友である河井継之助の首を討つ」なんてことが出来るはずがありません。

究極の選択ですね、
そして長岡藩は一藩を挙げて後世の軍事史上に名を残す究極の戦いに繰り出し行くことになります。
◆北越戦争

当コラムは軍事コラムではありませんので全てを詳細には触れませんが、北越戦争における象徴的な戦いに限り「知っておいて損はない」ので、鎮魂の意を込めて触れていこうと思います。

〇全藩への宣言

藩内の人望が高い三島億二郎の同意を取り付けたことで、あっという間に開戦に向け全藩の人心掌握を行います(以下、今泉鐸次郎『河井継之助傅』より)。
戦いの、ついにやむを得ざる事由を説き、かつ日く、このうえは君国のために一藩をあげて奸を防ぐほかみちなし
我藩一意誠意を表す。(中略)王師の名を仮りて、我が封土を蹂躙し、以て、私憤を漏さむとす。今は是非なし
なお「私憤を漏さむ」とは、私憤=会津藩憎しを隠さずに表明している、ということです。

〇長岡藩の勝算は?

物量に勝る西軍との戦いなので、地元の「人の和地の利」を生かしたゲリラ戦で新政府軍の補給路を寸断しつつ戦略拠点を防衛する「守りの戦い=勝てないまでも負けない戦い」を志向したと思料します。

更には、西軍は「南国の兵」が多く越後の「雪の中の戦い」に慣れていない(まるで第二次世界大戦のソ連vsドイツの『スターリングラードの戦い』の様相)ので「時を稼いで冬将軍の到来を待つ」こと、戦いが長引くことで西軍に一旦は組した諸藩の考えも変わることを期待したこと、諸外国に「新政府は弱い」との印象を与え大局を操ろうとしたこと、などを思料します。

実際、北越戦争が膠着状態に陥った夏頃ですが、「西軍が北越で負けている」という噂が横浜の外国公使館の間で流れており、新政府の対外信用に影を落としていました。

〇山県狂介と岩村精一郎

参謀山県狂介は、5月9日に長州奇兵隊から2個小隊を抜き雨の中を柏崎から小千谷に急行し、翌10日朝7時頃に戦略拠点である榎峠の方角で激しい銃砲声を確認します。
急ぎ小千谷本陣に駆けこむと、軍監岩村精一郎以下の幹部たちが地元の娘に給仕させた膳付きの朝食中でした。

山県狂介は激高激怒、土足で座敷に上がり膳を蹴あげます。

更には、軍監岩村精一郎が小千谷本陣でも明確に聞こえる榎峠の銃砲声に「聞こえない」と嘘をついたことから、参謀山県狂介はその場で軍監岩村精一郎の指揮権を剥奪します。

〇朝日山攻防戦(慶応4年5月10日~13日)

軍監岩村精一郎から指揮権を剥奪した参謀山県狂介は、奇兵隊隊長・時山直八と共に信濃川を渡河して最前線を視察します。
そして榎峠よりも朝日山(海抜332メートル)の戦略的重要性を認識し、全兵力あげて朝日山を攻撃の上奪取する計画を立てます。

5月13日早朝、濃霧の中、時山直八は攻撃の準備を整えて小千谷に戻った山県狂介の奇兵隊2個小隊の援軍を待ちますが、山県狂介と奇兵隊の援軍は現れません。

濃霧が晴れれば戦機を逸すると考えた時山直八は、長州藩奇兵2・5・6番小隊約200人を率いて単独で朝日山山頂に攻撃を開始し、南方に陣を敷いていた薩摩藩兵も呼応します。
朝日山山頂を占拠していた東軍兵士は防衛し、桑名藩の雷神隊長立見鑑三郎(後の陸軍大将)が効果的な反撃を繰り返します。
戦闘中、桑名藩兵の銃撃により時山直八が戦死し西軍は退却しますが、この退却で長州側と薩摩側に不協和音が生じることになります。
時山直八は松下村塾出身者で長州奇兵隊の歴戦の雄であり、山県狂介や品川弥二郎の盟友でもありました。

後年、品川弥二郎は「時山を殺したのはお前だ」と山県本人に向かい痛烈に非難したそうです。

〇長岡城陥落戦(慶応4年5月16日~19日)

河井継之助は信濃川を渡り敵の後方へ迂回して小千谷の西軍本営を衝く作戦を立て、実施日を5月19日の夜と決定します。

ちょうど同じタイミングで、戦線膠着の打開を画策していた山県狂介は、奇兵隊3番小隊長の堀潜太郎の進言を受け、前衛の榎峠や朝日山等の敵陣地を避けて後方にある長岡城を直接強襲する作戦を立案しました。
お互いがスゴイ読み合いで、昨今の藤井聡太棋士と豊島将之棋士の棋譜のようです。

山県狂介は本計画を小千谷本陣にいた薩摩の参謀黒田了介に図りますが、朝日山攻防戦で発生した「薩摩側と長州側に生じた不協和音」から同意を得られません。

5月15日に関原(せきはら)に陣を構える三好軍太郎(長州)から作戦実行の同意を得ます。
折しも5月6日から9日まで続いた大暴風雨により信濃川は増水しており、洪水と川舟の調達に悩まされましたが、5月19日の朝霧をついて三好軍太郎らに率いられた奇兵隊3番小隊と長府藩報国隊の寡兵約100名が7そうの小舟で決死の信濃川渡河を強行、幸運にも警備手薄な長岡城下の寺島に上陸を果たして長岡藩守備隊を敗走させます。

上陸成功が伝わると薩摩藩兵や高田藩兵も次々と渡河上陸を果たし、不意を衝かれた長岡藩兵は城外における最後の拠点である中島の兵学所に拠って防戦しましたが、勢いに乗る西軍に撃破されます。

河井継之助もガトリング機関砲一門を引いて、自ら操作し城門で戦ったと伝えられます。
城下は火の海となり、長岡城は落城、藩主や藩兵らは長岡城東の悠久山から森立峠へ落ち、森立峠で燃える長岡城をみて榜陀(ぼうだ)の涙を流したといいます。

西軍は寡兵で長岡落城を成功させ、山県狂介の戦略眼が勝利しました。
前衛の戦略拠点である朝日山や榎峠を占拠していた東軍は、長岡城落城の報に接し前面の西軍を警戒しながら栃尾(とちお)方面へ退却します。

長岡藩主一行は会津若松城下へ逃がれ、長岡藩兵らは加茂(かも)に集結、23個小隊を17小隊に編成替えして長岡城奪還を期することになります。

〇長岡城奪還戦(別名:八町沖渡河作戦、慶応4年7月24日~25日)

今町攻略戦(慶応4年6月2日)の後、戦局は長い膠着状態に陥っていましたが、河井継之助は長岡城奪取の奇襲作戦を立案します。

長岡城の城北には「八町沖(はっちょうおき)」と呼ばれる湖沼が広がっており、雑木・葦などに覆われ「魔蛇の棲むところ」と伝承されていた難所でした。

この難所を渡って奇襲により長岡城を奪取しようという作戦です。7月24日夜、約700人の長岡藩兵は5梯団ごとに八町沖を渡る作戦が実行されました。

各小隊は約50メートルの間隔を維持して一列縦隊で進みます。

7月25日午前4時、八町沖の対岸である富島村に上陸、第1梯団の川島億次郎隊は上陸後に同地に宿営していた薩摩藩兵らを敗走させ、第2梯団の三間市之進隊は西軍を追いつめ逆襲する西軍に備えました。
第3梯団以降は長岡城下に入り、長岡城の奪取と西軍を信濃川へ追い落とす戦闘を展開します。

実は、西軍側は長岡藩兵の本拠である今町と栃尾を衝くために薩摩藩兵の精鋭部隊と長州藩兵の奇兵隊による総攻撃を計画しており、作戦開始は7月25日と決められておりました。

つまり、八町沖渡河作戦の方が西軍の総攻撃よりも「半日早かった」ことになり、前述の「長岡城陥落戦」とは逆の展開になりました。

西軍の公家・西園寺公望や山県狂介は長岡の本営にあり、明日の作戦の戦勝前祝いとして酒宴をひらき酔い潰れており、西軍は予期せぬ長岡藩兵の奇襲により総崩れの醜態をさらしました。

山県狂介は長府報国隊を率いて長岡城南の妙見まで退却、西園寺公望は信濃川を渡って西岸の関原まで錦旗を奉じて逃げのびます。

長岡城内には置き捨てられた兵器や衣糧などが山となり、遺棄された遺体も200余確認されたとのことです。

すぐさま河井継之助は長岡城の神田御門を指揮所に指定しますが、参謀の黒田了介と吉井友実に率いられた無傷の薩摩藩兵は総力をあげて反撃を開始し、戊辰戦争中最大の激戦と呼ばれる戦いが長岡北郊の新町口付近で展開されます。

新町口の応戦に赴く途中で河井継之助は左膝を銃撃され大怪我を負います。

河井継之助は長岡藩兵の士気が衰えるのを怖れ戦傷のことは側近に箱口令を敷き、手当もしませんでした。
指揮系統を失った長岡藩兵は再び城を放棄し、家族共々会津へ落ちのびることになります。
そして越後諸藩は順次官軍に恭順を示し、戦場は東の会津の地へと移っていくことになります。
◆新発田藩の去就

新発田藩溝口家10万石は、高田藩榊原家15万石につぐ越後の大藩であり、北越戦争における当初は東軍として従軍します。
しかしながら、実は新発田藩の家老・溝口半兵衛が高田の西軍と秘密裏に接触を続け、新発田藩が西軍に内応する交渉を進めていました。

八町沖渡河作戦が激戦となっている7月25日に新発田藩は西軍に内応、新発田藩領の太夫浜に西軍の増派部隊が相次いで上陸します(これ以上は書きません)。
◆八十里越え、そして終焉

長岡藩兵とその家族は会津へと落ちのびることになりますが、阿賀川沿いを遡上する津川口が西軍および新発田藩兵にいち早く押さえられていたため、会津への唯一の通路は「八十里越」だけになりました。

「八十里越」は越後の下田から会津の入叶津(いりかのうづ)に抜ける道ですが、「一里が八里に相当するという険しい山道」からその名が付けられています。
現在は「舗装されていないただの山道」になっています。

河井継之助一行は8月4日に吉ヶ平を発し山中で一泊し、河井継之助自身は担架に乗せられ八十里越を越えます。

有名な自嘲の一句があり、河井継之助は越後の山野を振りかえり涙ぐんだといいます。
八十里腰抜け武士の越す峠(「越抜け」を「腰抜け」に掛けている)
8月5日には会津藩領の只見村に入ります。


ここであまり知られていない出来事に触れます。

到着日の昼頃、代官である会津藩士・丹羽族(やから)が河井継之助に会いにきます。

丹羽族は落人(おちうど)を受け入れる責任者でした。
八十里越えを果たした落人は長岡藩兵やその家族、会津、米沢、仙台など同盟軍の大勢ですから、只見村の総戸数292軒の食糧がたちまち尽きました。

その日の夜半に丹羽族は切腹して果てるのですが、遺書に次のような文面がありました(平石弁蔵著『会津戊辰戦争』)。
兼て、米穀不自由の場所を弁(わきま)えず、諸藩多人数入り込み、飢渇に及び候ては、立場において、相済まざる儀と、初発より取立役へ厚く申し談ずる事、諸々尽力いたし候之ども、最早や飢渇顕然、見切り相つき、諸藩は勿論、上に対し奉り、御申訳あい立て難く、せめて腹切り御申訳つかまつり候
この事件で、只見村の人々は種籾(たねもみ)まで供出して落人の食に充てたとのことです。

丹羽族の行動は現在の我々には思いも寄らないものですが、自藩は無論ですが同盟軍の諸藩に対して申し訳ないという気持ちに、(是非は別として)役目に対する矜持を強く感じ取ります。


先君・牧野忠恭と現君・牧野忠訓は河井継之助の身を案じ、会津若松城下にいた旧幕府の医官松本良順を只見村に派遣して河井継之助の治療に当らせます。

松本良順は傷口を一瞥しただけで治療をせず、持参した肉タタキ料理をすすめて話に花を咲かせたそうです。
河井継之助も「豪傑に会った」と上機嫌だったと伝えられています。

河井継之助は盟友である藩医小山良運を会津若松に向かわせますが、これは藩主牧野家の継嗣の鋭橘(えいきつ)をフランスヘ亡命させるもので、既にエトワード・スネルに金3千金を渡しており外国に逃す手配でした。


その後会津を目指して一行は歩を進めますが、8月11日に塩沢村にて最期の覚悟を決め、医師の矢沢宅へ移ります。そして8月16日に42歳の生涯を閉じます。
死因は敗血症ともガス壊疸(えそ)とも言われます。

死に際して逸話があり、河井継之助は矢沢家の庭先に火をともさせ、従僕の松蔵に「我れ死なば、これを火せよ」(今泉鐸次郎『河井継之助傅』)と自らの火葬の火としたとのことです。
◆人物評価

以上、42歳の人生を駆け抜けました。

おそらく殆どの方は河井継之助をご存じないか、小説「峠」の司馬史観版・河井継之助しかご存じないかと思います。

こんな人がかつていたのですよ。


本コラムの冒頭でも触れましたが、河井継之助は「一元的な評価が全く通用しない人物」でありまして、更には見る角度によって明確な「光と影」がつきまとう人です。

陽明学の経世済民(けいせいさいみん)は河井継之助の「思想の背骨」ですが、彼の場合は
「経世済民が目的ではなく」
「(武装)中立路線を実現するための富国強兵が目的であり、経世済民は手段であった」
という点が明確です。

ただ、この富国強兵=武装中立とは、単に長岡藩「のみ」が目指すものではなく、当時は明確な定義がなかった「日本という国全体」を意識した経世済民と富国強兵でした。
だからこそ、西軍は単なるクーデター軍であり、それこそ勤王・王政をかたって「長州幕府」か「薩摩幕府」を作ろうとしている、その過程で恭順一辺倒の幕府に代わり(私怨によって)会津藩を血祭りに上げると解釈した訳です。

合わせて、決裂した小千谷会談がそうであったように、河井継之助は原理主義者であり、長州藩が会津藩に持つ私怨を「義がない」として一刀両断したように、自分の考えに絶対的な自負を持ち反対意見を寄せ付けない強引さがあります。

一方で、攘夷論真っ只中の時代に、既に開港・自由交易を主張するといったように自由で開明的な発想の持ち主でした。
このように「謙虚に様々な情報を収集する姿勢」と「相手を完膚なきまでに論破する姿勢」が同居しているのです。

小説「峠」において、司馬遼太郎は
「譜代藩牧野家の藩士としての立場を貫いたが、逆に『立場を越えることが出来なかった』」
というニュアンスの表現がありました。
小説「英雄児」の決言である「長岡藩の器が小さすぎた」も同様です。

私の見方は、わずか1,500人32小隊とはいえ近代兵制を実装したことで、武人としての河井継之助が変わってしまったこと、先君と元君が支持する河井継之助に「意見出来る人間」が消滅したこと、近代兵制を背景に河井継之助が多くを語らずとも藩論は武装中立路線に集約されていった、と思料します。

今年のNHK大河ドラマで、草彅剛氏が演じる徳川慶喜の台詞に「人は戦争を欲する」というものがありましたが、そのことがまさに幕末の越後長岡藩であったと思料します。

藩政改革はいちいち見事であり、遊郭廃止なんて現代に通じる「人権の考え方」です。
ですが、目の前にある一糸乱れぬ洋式調練部隊を見た時、「実戦投入したら負ける筈がない」と考えるのは、武人であれば無理からぬ願望だと思料します。

サムライの価値観は私には分かりませんが、もしかしたら会津藩も薩摩藩も長州藩も、そして幕藩体制の全てが消滅する予見の下、自らの力で「広義の自決」を遂げたと言うべき論理的破綻と矛盾に満ちた結末です。

そういう意味では「最後のサムライ」もあながち間違ってはおりません。

先ほど「北越戦争の勝算は?」と言いましたが、軍事的に無理な行動であることは明らかですが、
「勝てないまでも負けない」
という感覚に根拠のない賭け、即ち「バイアスの掛かったギャンブル」を感じ、徹底的な合理主義者である河井継之助らしくありません。

河井継之助は新発田藩の去就を「読み切っていた筈」ですが、新発田藩が東軍から抜ければ新潟港は風前の灯火となり西軍の増派が極めて容易となり、それは圧倒的な物量作戦と全面的に向き合うことを意味します。
「人の和地の利」は一切通用しません。

現在の福島県会津若松市の旧跡をご覧になった方は、飯盛山(いいもりやま)・白虎隊の悲劇とか筆頭家老・西郷頼母(たのも)一家自決の話(土佐藩士・川島信行と西郷細布子(たいこ)の話、諸説あり)、神保修理(しゅり)の妻の神保雪子の話(岐阜・大垣が嫌いになります)といった「会津の悲劇」で胸一杯となり、涙腺が崩壊したことでしょう。

ですが「長岡の悲劇」は「会津の悲劇」とは明らかに趣が異なり、近代戦さながらの軍事作戦行動の悲劇です。
あたかも長岡藩全体が河井継之助の「広義の自決」の毒気に当てられた様相を呈しております。


新潟県長岡市東神田に栄涼寺という浄土宗の寺院があり、墓地の奥まったところに河井継之助の墓があります。

その墓石の角がすり減っているのですが、それは長岡藩の敗戦後に恨みを持った人たちによって足蹴にされて転がされたためと言われています。

確かに「今町の戦い」や「八町沖渡河作戦の後の新町口の戦い」は激烈を極め、武士以外の非戦闘員の死傷が多かったと伝わっています。
西洋式調練を受けた精強な武人同士、薩摩藩兵・長州奇兵隊と長岡藩兵が最新鋭兵器で戦えばそうなります。

『長岡戊辰戦争概録』によると、長岡藩の死傷総計を641人としており、その内の
死者は「士分169人、卒148人の計317人」、
傷者は「士分178人、卒146人の計324人」
です。

民間人も100人を下らない死者があったと認識されています。
河井継之助が主導した北越戦争は長岡の地に甚大な被害をもたらしました。

このことからも、墓石を足蹴にした人たちの心情は無視できない、むしろ共感出来るとさえ思います。
墓石を足蹴にした人たちは、「夫や子、父を亡くした女性が多かった」と伝えられております。

なお西軍全体および東軍全体の戦死者は双方とも1,000人を下りませんので、いかに激烈な戦闘であったのかが偲ばれますね。

(補足)士分と卒(族)

士分とは
「正規の武士身分を持った者」であり、公的に苗字帯刀を許された身分。

卒(族)とは
足軽や同心の名称で呼ばれた「士分ではない下級家臣の者」の身分。
長岡にゆかりがあると言えば、第8回のコラムで触れた山本五十六が有名です。

河井継之助と共に戦った家老の山本帯刀は西軍に捕らえられ壮烈な最期(斬首)を遂げますが、山本五十六は長岡藩士高野家の生まれから養子で山本家に入り山本姓を名乗り家督を継ぎます。

山本五十六の祖父も北越戦争に出陣して77歳という高齢ながら長岡城守備に従軍しているので、山本五十六は幼いころから河井継之助の話を聞き影響を受けて育った訳です。

昭和10年(1935)のロンドン軍縮会議の予備交渉に赴くに際しての談話が有名です。
「私は河井継之助先生が小千谷談判に赴かれ、天下の和平を談笑の間に決せられんとした、あの精神をもって今回の使命に従う決心だ。軍縮は世界の平和、日本の安全のため、必ず成立させねばならぬ。」
長岡城奪還を果たした奇襲作戦である八町沖渡河作戦にも執心していまして、あの真珠湾攻撃のインスピレーションを受けたとか受けなかったとか・・・。


石原莞爾(かんじ)は、関東軍作戦主任参謀として昭和6年(1931)9月18日の夜に奉天郊外南満州鉄道の線路が爆破された「柳条湖事件」を立案し実行した首謀者の一人です。

石原莞爾の出身は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加盟した山形庄内藩ですが、祖父の石原重道は庄内藩大隊長として一個大隊を率いて越後平野に出陣しており河井継之助と共闘します。

河井継之助は死の間際に「藩主一族を庄内藩に避難させる」よう命じますが、これは祖父の石原重道との交遊に深い信頼を抱いていたからだという意見があります。

陸軍大学に学んだ石原莞爾が卒業にあたって「長岡城を中心とせる戦と河井継之助」と題した論文を草しており、特に八町沖渡河作戦に執心していました。

いずれも私が評価しない軍人の双璧ですが、そのいずれもが河井継之助の薫陶なり影響を受けている事実は実に皮肉なものです。

両名共に「河井継之助を一元的にしか見なかった」と思料します。
◆山田方谷の思い

河井継之助は死に臨み、偶然居あわせた松屋吉兵衛という人夫請負業者を呼び寄せて山田方谷に言伝(ことづて)を頼んでいます。

松屋吉兵衛は備中松山藩と長岡藩に出入りしており、たままた只見村に来ていました。

「継之助は今の今まで先生の教えを守ってきました」
との言伝を聞いた山田方谷は、一言も発せずにしばらく黙ったままだったそうです。

後に河井継之助の墓碑に刻む碑文を依頼された際に
「石文(いしぶみ)を書くもはづかし死に遅れ」
との一句を送り、断ったと伝えられています。


時の老中であった藩主・板倉勝静の行動に翻弄され、備中松山藩は西軍から「賊軍認定を受ける」寸前まで追い込まれましたが、山田方谷の働きにより最悪のケースを免れ、藩領が焦土と化すことはありませんでした。

山田方谷の立場で考えるに、確かに藩領は無事に人民の命や生活を守りましたが、河井継之助や長岡藩牧野家が貫いた「譜代藩としての一矢(喘矢(こうし))」に接し、心中に「さざ波が立たない」訳がありません。

そうした思いが山田方谷をして「死に遅れ」と言わせしめたのだろうと思料します。
◆半藤一利氏の河井継之助評

半藤一利氏は言わずと知れた近代史を中心とした自称「歴史探偵」の歴史研究家であり、私が敬愛する方です。

今年(令和3年)の1月にお亡くなりになりましたが、真摯に史実に臨む姿勢とその数々の著述や功績は偉大なものです。

氏は幼少期の自らの戦争体験である「目の前で人が亡くなっていった」光景と、終戦を契機に「学校で教える内容が180度変わった」経験から、
「一生の内、二度と『絶対』という言葉を使わない」
と決意されたエピソードが有名です。

そんな半藤一利氏の河井継之助評について、以前見た番組か著述かは忘れましたが、私の記憶によると概ねこんな感じです。
  • ・長岡藩内で陽明学を正式に学ぶことは不可能であり、河井継之助の陽明学に対する理解は表面的であった筈だ(17歳だし)
  • ・山田方谷に師事して、初めて本格的な陽明学とその実践について学ぶことが出来たのだろう
  • ・山田方谷の陽明学は、「人間の心にある『天の理』を実行し、実行を通した事業(=藩政改革)において『誠心をつくすこと』」である
  • ・即ち、山田方谷の陽明学には「政治色がない」、誠心そして誠の哲学の実践である
  • ・一方の河井継之助の場合、家柄や門閥制に抗い藩内の低い身分から立身出世を遂げるための「手段」としての陽明学ではなかったのか?
  • ・確かに、河井継之助が山田方谷に師事した段階で「山田方谷の陽明学」を理解し体得したのであろうが、「政治色が強い」河井継之助が陽明学に臨む姿勢は、結局は「表面的な改革手法とその結果を実践するに留まった『中途半端な陽明学徒』」ではなかったのか?
なかなか手厳しい評価です。

河井継之助の42歳の人生をつぶさに見てきた中で何度も触れましたが、河井継之助の藩政改革の目的は経国済民ではなく「長岡藩の富国強兵」にありました。

半藤一利氏はそれを「長岡藩内における立身出世の手段」と指摘します。

前述の山田方谷が河井継之助に送った言葉である
「利を求めて反って害を招かんことを懼(おそ)るる」
にも符合すると思料します。

半藤一利氏が
「(いかなる理由があるにせよ)戦争を『絶対に』許さない=北越戦争を引き起こした張本人である河井継之助を『絶対に』許さない」
という個人の思いもあったことでしょう。
◆矜持、責任の所在を思う

本コラムの最後に、河井継之助にまつわる「矜持に関する逸話」に触れます。

河井継之助の久敬舎時代の末輩である刈谷無隠(むおん)の話があります(『河井継之助傅』)。
彼は棺槨(かんかく)の人、地下百寸底の心をもって世に立ち、事にあたれ
「身を棺(かんおけ)に入れ百尺・千尺の地の底にあって、良心の命ずるまま正しいと思ったことを断固として行わなければ、政治は行われない」
と言ったものですが、棺桶は言い過ぎとしても
「良心の命ずるままに正しいと思ったことを断固として行う」
ことに、私は共鳴します。

SNS時代の現在は他人の目を気にして生きている人が猛烈に増加している気がしますし、更には「安易に答えを求めたがる」人も多い印象を受けます。

私の身の回りでも、表層的な「How-To」に終始して「奥底にある原理や原則に肉薄しない」人が多い傾向を感じますし、昨今の政治闘争を見ていると「次の手すら読まない『素人のへぼ将棋』」を見ているような気になります。
目的や最適手段、メリット・デメリットや意味を考えずに「表層的な答えのみを求める」風潮・・・、
次は何をするのが正解なの、教えて?。

大切なのは思考であり、具体的には「主語と目的語」「目的の達成意義」「目的の達成手段の是非」であり、河井継之助風に言えば実利・実学を追求して「形だけを求める」ことを排除したとでもいいましょうか。

無論、半藤一利氏の批判のように「河井継之助は陽明学の表層実践に終始した」という反対意見もありますが、私は、42歳以降の彼の人生は「どうしようもなかった=時が『たおやか』に流れなかった」と思料します。
自分が明治元年(1868)1月3日の鳥羽伏見の戦い以降の河井継之助と仮定して、果たしてどういう対応が出来たのだろう?、
と考え込んでしまいます。

神の視点で見ることが出来る後世の我々にとっても、これは「正解がない問い」ですから・・・。

そして、河井継之助が「真に実現したかったこと」は、前述小千谷会談の(『河井継之助傅』に伝わる)嘆願書から類推できると思料します。


正解不正解は別として経営コラム風に言えば
「自らの頭で考えて、責任を持って実行する」
ということなのですが、東西で計2,000人以上が死亡した出来事はあまりにも大きな代償であり、軽々に「責任を取る」とは言えません。

昨今は「辞職すれば責任をとったことになる」という風潮がありますが、現在の「口先だけの責任の取り方」は単なる「敵前逃亡」に過ぎません。
只見村の会津藩士・丹羽族を見て下さい、彼の行動の「善し悪し」ではなく矜持を感じ取ります。

実務家として真に大切なことは、思考し問いかけ続け「名よりも実をとろうという実践=実学の考え方」であり、温故知新よろしく「一周回って古い考え方が新しい考え方になっている」と思料しますが、さりながら「個人ではどうしようもないもの(前回および今回のコラムでは「時流」)がある」という事実を我々に問いかける河井継之助42年の生涯でありますね。

私は、河井継之助の責任の取り方とは「矜持を持って事にあたることにあった」と思料し、改めて矜持の重要さを認識します。

河井継之助は最期に際して、今まで仕えてくれた外山脩造(とやましゅうぞう)に対して次の言葉を贈ります(『河井継之助傅』)。
汝の才用ふべし、我、汝を士分に抜擢せんものとかねがね所期したりも、今や大勢、将に一変せむとす。察するに現時の階級が全然、打破せられて新階級の作り出さるるも、恐らくは其日、遠きにあらざるべし。栄達の道、何ぞ。士分とはんや。侍むべきは門地格式(もんちかくしき)に非ずして、力量如何にあり。世の中は大変に面白くなって来た。寅太(外山の幼名)や何でも是からの事は商人が早道だ、思い切って商人になりやい。己もおみしゃんの事に就いては、能く花輪に話して置いたでや。
花輪とは花輪求馬のこと、「力量如何にあり=(意訳)やれば出来る」ですよ。

北越戦争の後、外山脩造は故郷長岡を出て福沢諭吉の慶応義塾に入塾し、大蔵官僚を経験して銀行家となり浪速銀行頭取や多くの関西の会社設立(阪神電鉄等)に関与します。

外山脩造の栄達を見ると、外山脩造に
「河井継之助が長岡藩藩士の立場を越えることが出来ず、時代の趨勢を見ることも適わなかった」
ことに対する冷静かつ深い理解と、
「旦那さんの仇を私が討ちました」
という思いがあったのだろうと思料します。

これこそが外山脩造の矜持ですね。

外山脩造の「河井蒼龍窟」という七言絶句があります。
経国の天才識(し)る者は稀(まれ)なり
疾風雷雨真機(しんき)を見たり
将の成敗英傑を論ずるを休(や)めよ
況(いわ)んや復(また)干戈(かんか)心事違(たが)うを
「将の成敗英傑を論ずるを休めよ」とは、河井継之助を賊軍(東軍)の将としての人物評価に留まらずに正しく評価してもらいたい、という意味です。
「況んや復干戈心事違うを」とは、河井継之助が西軍とまさか戦争すると考えていなかった、という意味です。

(補足)阪神タイガース命名の都市伝説

外山脩造の幼名が「寅太」なので阪神タイガースになったとか・・・。



このように賛否両論の河井継之助ですが、あなたはどのように評価されるでしょうか?


そして、本コラムのタイトルである「立場と役割」に関し、あなたの立場と役割はどのようなものであり、立場や役割における矜持とは何でしょうか?


今回はこの辺で。