第3回 |コラム澤口 「拙速のススメ」           

一般社団法人 日本事業戦略総合研究所(co-founder)、理事の澤口です。
全12回シリーズで、個人的に興味深かったことについて、自由気ままに書き綴って参りますので、お時間がある方はお付き合い下さい。


第3回のお題は「拙速のススメ」です。

前回のコラムは「お題がお題だった」ので医療系コラムの体(てい)をなしていましたが、少なくとも「コロナ禍の今日は有事である(平時ではない)」という雰囲気は感じ取っていただけたと思います。

私事ですが、このような環境下におきましても新たな事業構想構築や事業立ち上げに従事させていただく機会に恵まれております。

唯一の問題点としまして、全ての場面においてなのですが「検討を行う中で様々な変更に迫られ、変更・検討に掛ける時間もない」という点が挙げられます。

迅速対応が優れていること(兵は迅(と)きことを尊ぶ、とか)は感覚的に知っておりますし、「時間を掛けずに行動する」という意味の言葉に拙速があることも知っております。
一方で、拙速という言葉は悪いイメージのニュアンスや文脈で使用されている印象を個人的に感じております。
猪武者、何も深く考えない、みたいな。

私は(学者ではなく)実務家ですので、実務家の立場から私なりに拙速の意義について考察し、辞書の語彙説明とは異なり、私なりに再定義を行ったのが今回のコラムの内容になります。
お付き合いいただけると幸いです。



◆拙速の語彙説明を辞書で確認してみると
「拙速」を広辞苑で引くと、次の語彙説明があります。
→できはよくないが、仕事が早いこと。また、そのさま。「拙速に事を運ぶ」⇔巧遅(こうち)

反対に「巧遅」を広辞苑で引くと、次の語彙説明があります。
→出来ばえはすぐれているが、仕上がりまでの時間がかかること。

要は、スピードと(出来映え)仕上がりのトレードオフ。
あちら(スピード)が立てばこちら(仕上がり)が立たず・・・両立しないという感じでしょうか?



◆「巧遅は拙速に如かず」という言葉は?
「巧遅は拙速に如かず」の由来を調べると、中国南宋の謝枋得(しゃぼうとく)が編纂した『文章軌範』という「あの」科挙試験の詩文科目の模範文例集として扱われた書物の5巻の序に、模範的かつ簡潔な文章を書くススメとして「巧遅は拙速に如かず」と記されています。
  • (抜粋)
    場屋(じょうおく)中には日晷(にっき)に限り有り、巧遅は拙速に如かず。
  • (解釈)
    科挙試験の試験時間は限られているので、迅速に作った詩文の方が、時間を掛けて作った巧妙な詩文よりも勝っているものだ。
私は「孫子が出典」と思い込んでいたので今回調べてビックリした次第ですが、要は拙速の方に軍配を上げている表現になります(第2回で「自分で調べろ」って言ってたのに・・・ねえ)。
「あーでもない、こーでもない、もっと上手い表現は・・・」と考えず、思う文章をさっと書き下すのがいいんだよ、といった感じでしょうか?

(補足)「巧遅拙速」
いくら上手でも遅いよりは、たとえ下手でも速いほうがよいという意味の言葉もあります。
更にはトヨタ自動車内では有名な「カイゼンは巧遅より拙速」という言葉もあります。
私はトヨタの人間ではないので想像して補完しますと、
  • ・現場主義=机上でモノを語るな
  • ・行動主義=机上であれこれ考え込むな
という仕事に対する姿勢を同時に表しており、陽明学に言う知行合一(ちぎょうごういつ)の考え方を示した言葉であると思料します。
(補足)「知行合一」
知ることと行うことは「不可分である」ということであり、更に進めて「知ることは実践(行動)を伴うことである=まずは行動せよ!」という考え方で、個人的にとても好きです。
幕末時の主要プレーヤーには陽明学かぶれが多かったのはご愛嬌かと。




◆スピードと仕上がりのトレードオフは本当か?
振興企業が資本市場に登場してきた1990年代後半当時、よく以下のことを耳にしましたっけ。
  • ・大企業では「印鑑を押す以外に能が無いオッサン達」が組織の意志決定を遅らせる。
  • ・新興企業では「トップダウンで経営判断を下す」ので意志決定が早く機動性がある。
ヒルズ族(古い!)の面々が時代の寵児になり、世間やマスコミがもてはやしていた、そんな時代でした。

(補足)ヒルズ族
2000年代に、楽天やライブドア等のweb系企業が、2003年開業した六本木ヒルズに入居。
しかも若い経営トップがヒルズ住居棟に住むケースが多かったことから「ヒルズ族」と呼ばれた。
一見、正しそうに見えますし、私も当時の若かりし頃は「大企業ダメ論の方に100%同意」しておりましたので、一見どころか全面的に信じてしまいそうですが、感情論は別として本当でしょうか?

大企業の印象である、
  • ・回覧は無意味(そこまで回覧する意味があるのか?あいつはハンコ押してるだけだろ?)
  • ・回覧は多面的かつ建設的な牽制を誘発(アクセルとブレーキ、適切な牽制機能発揮
という2つの印象は確かに相反しますが、いずれも肌感覚で正しいと考えます。

一方、新興企業に対する印象である、
  • ・意志決定は迅速
  • ・意志決定プロセスに対する牽制機能が脆弱
という2つの印象も確かに相反しますが、双方が正しいのではないでしょうか?

辞書の語彙説明を再掲すると、思考検討に掛ける時間が存在する時、要するに平時において、
  • ・スピードを重視して時間をかけずに行動する(拙速)
  • ・仕上がりを重視して時間をかけて行動する(巧遅)
となり、前述の大企業および新興企業の例でも「どこに焦点を当てているか?=トレードオフ」という解釈で当てはまると考えます。

でもですね、冒頭の私の事例で触れたように、我々の日常において「検討にたっぷり時間を掛けることが出来る」場面は多くないですし、「ころころ前提条件が変化する」なんてことも多いです。
ということは、実務家の立場から、時間をかけられない場面における拙速を考察する必要がありそうです。
そして、この「時間がない拙速」は辞書の語彙説明にはありません。
「時間がない拙速」を「皆さんも良くご存じの『あの歴史事実』」を通じて考察してみます。



◆羽柴秀吉の中国大返しが可能になった理由は?
皆さんご存じの「秀吉の中国大返し」です。
備中高松城(現在の岡山市西北部)から(山城国と摂津国の国境の)山崎に戻って明智光秀を討ったアレです。

何度となく歴史ドラマの一場面となり、秀吉が天下取りレースの表舞台に躍り出るきっかけとなった象徴的な歴史事実です。
ただ、あまりにも撤退行軍が見事であったことと、秀吉が後世の歴史家を欺く目的(欺かれる歴史家が情けない)で「功績を盛った」ので、真実と虚構が入り乱れ、実際に「どのように実現したのか」が分かっていない点が多く存在します。
これは従来の歴史家がエビデンスを重視した、要するに「●●という資料に記述がある」ということを重視し、科学的な視点である具体的に「どのように成し遂げたのか?」という論理的根拠を軽視してきたことに原因があると考えます(だから盛った秀吉に江戸時代以降の歴史学者達が騙されたのです)。

歴史ドラマでは「羽柴秀吉(以下「秀吉」)は本能寺の変の発生を事前に知っていた」といった陰謀説が面白おかしく表現されますが、仮に事前に知っていたとして、大軍(備中高松城攻めは3万(!)が従軍)を何の準備もなしに撤退行軍させることが出来る筈がないことは子供でも分かります。
中国大返しは、行軍自体が世界の軍事史上でも類を見ないものでもあるそうで、現在の我々にも様々な示唆があると信じてつぶさに見ていきましょう。

端的に言うと、本件のスゴさは「万を超える大軍の撤退行軍の『時間(速度)の驚異性』」です。
どれ程スゴイことかは、次の通り時系列に見ると分かります(日付は和暦)。
  • ・本能寺の変が6月2日
  • ・変発生の報を秀吉が把握したのが3日(夜)か4日(未明)
  • ・毛利側(安国寺恵瓊)と講和を開始したのが3日か4日(把握してすぐに講和開始)
  • ・備中高松城主・清水宗治の切腹を見届けたのが4日
  • ・摂津衆の一人、茨木城(大阪府茨木市)城主中川清秀(明智光秀に近い)に返書したのが5日
  • ・備中高松城(岡山県岡山市)から撤退を開始したのが5日(撤退はここから開始)
  • ・沼城(岡山県岡山市)に到着したのが6日(高松城~沼城:22km)
  • ・姫路城(現兵庫県姫路市)に到着したのが7日(沼城~姫路城:70km、高松城から姫路城まで約90km(!))
  • ・細川藤孝に使者を送ったのが8日
  • ・姫路城に9日まで滞在、同日発する(7日から9日まで休んでいる)
  • ・別働隊を淡路島東岸に進軍して明智方に通じる可能性のある菅平右衛門が守る洲本城(兵庫県洲本市)を攻撃して落城させたのが9日
  • ・姫路城を発して明石に到着したのが9日(姫路城~明石:35km)
  • ・明石を発して兵庫に到着したのが10日(明石~兵庫:18km)
  • ・兵庫を発して尼崎に到着したのが11日(兵庫~尼崎:26km)
  • ・富田(大阪府高槻市)に到着したのが12日(尼崎~富田:23km)、ここで摂津衆や織田信孝(信長三男)が合流する
  • ・山崎に着陣したのが13日、同日に山崎の戦いの戦端が開き、明智光秀討死


なお、最終的に山崎に着陣した秀吉本軍は(諸説あり)約2万(州本城攻略や後詰めに兵を充当)であり、姫路城から山崎まで100km超なので行軍の全工程は約200kmを超えるものです。
撤退開始が5日で山崎着陣が13日、ということは8日間で200kmもの道程を「駆け抜けている」ことになり、単純平均で「1日あたり25km」の行軍です。

なお、備中高松城から姫路城までの約90kmの行軍について、毛利勢からの追撃や道程中の伏兵や側面攻撃を避けるために「2日で90km」という驚異的なスピードを実現しています。

陸上自衛隊の最精鋭であるレンジャー部隊・第一空挺団(空の騎兵、部隊標語は「精鋭無比(!)」)の訓練に「御殿場演習場の山岳地帯を行軍する」というものがあり、それは「装備(武器・パラシュート・食料)を背負って3日間で100km(!!)行軍」というものです。

レンジャーの任務は「敵制圧地にパラシュート降下し、各自が敵を撃滅し、もって敵の制圧を解放して味方本軍の制圧地への侵攻を助ける」というものなので、パラシュート降下した場所が都市や森、はたまた水の中のようにあらゆる場面を想定して訓練されています。各自が生き残るため、レンジャーには強靱な精神と体力が求められます(殺しのテクニックもね・・・)。

中国大返しにおける雑兵の武器装備の取り扱いに関する研究もあり「姫路城までは裸で駆け抜けた」ようですが、当時の一般雑兵が、我が国屈指の最精鋭レンジャー達と同等レベルの体力であるという事実に驚嘆します。

城郭考古学者の千田嘉博氏は、兵庫城の発掘調査や他の発掘調査の結果から、秀吉が信長に対するパフォーマンスで信長を毛利攻めの戦線に引っ張ってくる(中国親征)目的で、街道の各所に信長の宿所として御座所(ござどころ)を整備していたと提唱します。
御座所は、当時の門構えの常識に倣い貴人用と一般用の門を二つ構えており、この文脈において貴人=信長と考えることが相応である、という学説です。
千田氏は、御座所が当初の目的=信長の宿泊ではなく、中国大返しにおける雑兵達への兵糧供給や休息に役立ったと主張されています。私は合理的な学説だと考えます。

普通に考えて200kmを超える道程を大軍が駆け抜けるだけでも驚異的ですが、駆け抜けた後に合戦を前提としているので戦闘能力を維持することが重要です。
「戦闘能力を維持する」とは、ずばり体力温存であり、その基本は食事と休憩です。
「返すぞ」という意志決定は一瞬ですが、それを支えた兵站(ロジスティックス)は既に準備されていた設備(御座所)を流用した、設備流用により大軍の行軍が可能になると一瞬で判断した、と解釈するのが妥当ではないでしょうか?

更に秀吉側が巧妙なのは、5日の中川清秀宛て返書のように「信長が生きて逃げた」との偽情報を先行して流布し、(滅んでいない)織田家政道vs明智反乱軍の構図を作り、明智側から従軍の誘いを受けてに迷っている摂津衆を自らの味方に組み入れたことです。
事実、山崎の戦いにおいて、明智軍側が懐柔に失敗した中川清秀や高山右近・池田恒興といったの摂津衆の槍働きが秀吉本体2万よりも特筆していました。
合わせて、7日から9日まで姫路城に滞在した時間は、単に兵を休める時間だけでなく、弔い合戦であるという大義名分を明らかにしつつ物資の分配を公平に行うことで士気を鼓舞するための時間であった、という学説もあります。

有事と平時の違いを、後世の我々に「まざまざと見せつける」歴史事実です。
我々、こんな感じの精密かつアクティブに生きてます?・・・自信ないですね。

一方の明智光秀(以下「光秀」)側ですが・・・時系列で見るとこんな感じです。
  • ・本能寺の変が6月2日、同日坂本城に帰還
  • ・細川藤孝・忠興父子が信長の喪に服したのが3日
  • ・近江衆や美濃衆の懐柔に3日と4日を費やす
  • ・長浜城・佐和山城を占領、焼け落ちた瀬田橋を修理して安土城に入城したのが5日
  • ・上杉景勝に援軍要請の使者を送ったのが6日
  • ・朝廷が吉田兼見を勅使として安土城に派遣して光秀が拝謁したのが7日
  • ・安土城から坂本城に帰還したのが8日、同日に秀吉の行軍を把握
  • ・細川藤孝・忠興父子に書状を送り合力を拒絶されたのが9日(秀吉が使者を送ったのが8日)
  • ・洞ヶ峠(京都府八幡市と大阪府枚方市の間、日和見の代名詞「洞ヶ峠を決め込む」の語源)で筒井順慶の合力を得ることに失敗したのが10日
  • ・淀城(京都市伏見区)や勝竜寺城(京都府長岡京市)に兵を入れたのが10日から11日
  • ・山崎の戦いが13日で同日討死
  • ・高山重友・中川清秀らが亀山城を落城させたのが14日
  • ・明智秀満が坂本城の財宝を堀秀政に送り、光秀の妻を刺殺した後に一族が自刃したのが15日
  • ・光秀の首が本能寺に晒されたのが16日
  • ・斎藤利三が京都六条河原で磔にされたのが17日


特筆すべきは5日から9日までの間「光秀は対上杉工作の他には特に軍事行動していない」ことと、9日および10日の「一番確実視していた多数派工作(婚姻関係先の細川家と配下(与力)の筒井家への味方工作)に失敗した」ことです。
8日に秀吉の撤退行軍を把握した際の衝撃はいかばかりか・・・油断していたのだろうと。
合わせて(後述しますが)大義名分が無いとは、かくも脆いのですね。

実際のところ、3日に細川藤孝・忠興父子が信長の喪に服していますから、本能寺の変の後の早い時期、即ち「本能寺の変当日の2日から合力を拒絶された9日の間」に光秀側から細川親子に対して「合力要請を行った」と考えるのが妥当ですが、永青文庫(細川家文書を所蔵管理)には該当する内容の書状が残っていないので証明出来ません。

現細川家当主(あの総理大臣経験者)は「細川家は代々公文書を大切にする、その一方で我が国の官僚は・・・」とか発言してましたが、これは個人的邪推ですが「細川親子が後世に残しておきたくない文書、特に秀吉から誤解を受ける可能性がある文書の類いは『全て闇に葬った』」と考えるのが普通の考え方です。
私なら闇に葬りますね。重ねて言います、根拠のない邪推です・・・。

本能寺の変には様々な発生理由説がありますが、本件は大義のかけらもない「主殺し」という大罪であり、秀吉軍のみならずとも柴田勝家や滝川一益、徳川家康(実際、光秀討伐軍を編成して出陣している)などの織田方面軍が襲いかかってくることは必定かつ時間の問題です。

変の後の「光秀が無策に時間を過ごしている」ことを見ると「信長親子(当時、家督は息子の信忠に承継済み)を同時に討って織田家を滅ぼし天下を取れるから討った」というような計画性のなさを個人的に感じます。
一方で、光秀が治めた福知山などでの光秀治政の評判は非常に高く、その為政は地域伝承により現在まで語り継がれて評価されている程でありますから、一方的に「光秀は凡庸」と断じることに無理があると思料します。
なお、大坂に集結した織田信孝の四国攻撃軍の出陣日が2日であり、長宗我部氏を危機から救い合力を得るために2日決行した・・・なんて学説や見解もあります。

この考察で一番際立つのは、秀吉軍が「有事の拙速」なのに対し、明智軍が不思議なくらいに「平時の巧遅」である点です。
そうです、トレードオフが成立していない・・・。
秀吉軍の行動は、時間がない状況における究極の行動であったということです。

ただ・・・ですね、我々は結末を知っている、言わば「神の視点」で中国大返しを見ています。
「有事の拙速」の結果が優れていれば問答無用で「会心の一撃」ですが、結果が悪ければ悪手以外の何ものでもありません。
これって・・・上手く行ったからいいようなもの、要はギャンブルと言えませんか?



◆中国大返しはギャンブルだったのか?
秀吉軍の立場、擬似的に黒田官兵衛に「なりすまして」考察してみましょう。

ざっと考えて、当面の解決しなければならない課題は、
  • ・毛利側・安国寺恵瓊との講和(背後を追撃されないための対応を含む)
  • ・大義名分の形成と行軍の全体工程構築(具体的な進め方)
  • ・摂津衆(中川清秀(茨木)、高山右近(高槻)、池田恒興(伊丹))の懐柔と光秀からの離反工作
  • ・(光秀に近く、姫路城以降の行軍の妨げになる)州本勢の制圧(姫路城を出立する前に措置)
  • ・織田家中、織田信孝(信長三男)の獲得(弔い合戦の正当性を獲得する)
  • ・柴田勝家(対上杉家北越方面軍)および滝川一益(対北条家東海道方面軍)への牽制
  • ・行軍実務の遂行(兵士への食料および休息の用意)


と、一発一発が極めて重い課題ばかりです・・・
一手間違えたらという緊張感に押しつぶされそうです。

あくまで推定ですが、リーダーである秀吉の役割は「弔い合戦を制して織田家中での発言権を得る」というビジョンを発することであったでしょう。
一方の官兵衛の役割は?と言うと「実務家として秀吉のビジョンを実現するため各実務を取り計らい、時間軸をもった工程に沿って遂行した」ということで、おそらく的は外していないと考えます。
実際、ビジネスも全く同じですね。

そして「大返し」を実際に遂行していく中で様々な不具合が頻出したと容易に推察できますが、その場合、官兵衛が秀吉に対して「プランAで走ったけど、微修正要、今はCを進言」と主張し、秀吉は従っている気がします・・・盟友でもあるし。

(補足)秀吉と官兵衛の関係性
官兵衛が荒木村重に有岡城で幽閉された時、信長は官兵衛が荒木側に寝返ったと考え激高し、秀吉と竹中半兵衛に「官兵衛の息子・長政を殺せ」と命じたのですが、両名は信長の命に背き、長政を隠して助けています。官兵衛が幽閉から生きて戻った際に、長政をかくまった両名を信長は大変評価したとのことです。

一点補足すると、現代の我々には戦国大名達は「物欲や性(さが)丸出しで自由勝手に殺し合い土地を奪い合った」というイメージがありますが、実際、戦(いくさ)には大義名分が必要不可欠であり、大義名分がない(義がない)合戦には味方がつきませでした。
山崎の戦いが最たるものですね。

(補足)戦国時代の悲劇=乱取り
乱取りとは略奪行為であり、戦の後に「乱取り」が認めた場合には、悲劇的な暴力行為が横行しました。
たとえば「大坂夏の陣」の戦後の大坂は、阿鼻叫喚の地獄と化しました。
乱取りにより負けた側の土地から金品や婦人・子供を「強奪する」ことこそが雑兵の戦参加のインセンティブであり、そのようにして調達された奴隷(日本人です)は南蛮貿易における日本側からの輸出品目でもありました。
秀吉がバテレン追放令を出した理由に、この奴隷輸出貿易を嫌った、という考え方もあるそうです。戦国気風とは、人の命がかくも軽い時代だったのです。

本能寺の変以降で現代人である我々が最もピンとこない点は、「弔い合戦=主殺しを討つ」という大義名分を獲得することの正当性、即ちこの大義こそが一番正当性があり、かつ得るチャンスが巡ってこないものであり、「信長討たれる」の報を知った瞬間から大義名分を基軸に正当性を得るために実務を「拙速に」組み立てたところに秀吉軍の凄みがあり、(レベルは別として)我々にも参考になると考えます。

こうして考えると、中国大返しやその後の山崎の戦いはギャンブルでも何でもなく「計画的に遂行された軍事行動そのもの」であり秀吉軍の勝利は必然であった・・・私はそう考えます。
そして、この計画遂行を決める力を決断力と呼び、同決断力を論理的かつ高確率的に支えるものを構成力と呼ぶ、と考えます。

繰り返しますが、刻々と環境や条件が変わり、想定しなければならない変数も増えていくのが、我々が日々直面している実務の世界です。
シナリオやスキームが変わる前提で、その変わり方を想定して「備え」、遂行・対峙していくことの示唆と考えます。



◆決断力と構成力
冒頭で新興企業の意思決定は早い・・・といった話をしましたが、我々のビジネス日常において、
  • ・責任の所在が明確である(秀吉の役割)
  • ・様々な状況シナリオに基づく構成を背景にしている(官兵衛の役割)
であるならば、単に「匹夫の勇」ではない立派な決断力であると解釈します。

(補足)匹夫の勇(ひっぷのゆう)
深く考えずただ血気にはやるだけの勇気、ゴルゴ13も言ってるじゃないですか「臆病だから生き残っている」と。

戦国時代という伝達情報の正確性や、伝達に日単位のタイムラグがある中で、ある程度の推定を置きつつ目まぐるしい動静に対峙していく・・・。
秀吉も天正5年6月9日に姫路城で「大義名分=弔い合戦」を自らの言葉で語り、兵を鼓舞し士気を高め、語りながら腹をくくったことでしょう。
姫路城までの撤退行軍はスピード重視でしたが、姫路城から山崎までの撤退行軍は明智軍の動静を見極める慎重そのものの行軍になります。スピードもそうですが、精緻な状況分析に基づいた行動に賛辞を送りたい。

そして、状況判断に基づく意志決定や方針決定、その先の行動の一つの理想像がここにある・・・そうは思いませんか?
大企業や新興企業を問わず、無論我々もそうですが、こうした決断力に基づく意志決定プロセスが最良の一手であると思料します。



◆有事の拙速とは?
中国大返しが教えてくれるように、現状のコロナ禍および今後の混沌社会を有事と見なせば、

  • ・方向性や考え・価値観に基づく具体的目的を決定(決断)する
  • ・とにかく状況を見て考える、信頼する仲間と議論を尽くしたり、(前回コラム同様に)疑いの目を持ちつつ事実の真贋認定と厳格に向き合う
  • ・刻一刻と変化する事象を俯瞰し、かつ鳥瞰する五感を持つ
  • ・変化に対応する複数の対応策を明確に構成し、そして行動する
  • ・行動の結果や各対策の進捗を常時把握し、変えるべきを謙虚かつ即座に変え、行動にフィードバックする
ことを、ここでは「有事の拙速」と定義します。

我々は、人生やビジネスの場において「サイコロを振る=偶然に身を任せる」ことを行ってはならないはずです。
サイコロ=偶然ではなく、中国大返しが「そう」であったように、きめ細かい実務の成功を積み上げていき、必然(偶然の対義語)としての成功=大義実現(事業成功を含む)を組み立てていくこと、その具体的な決断力や構成力を日々磨くこと、そのための自己研鑽を謙虚に続けること・・・。

有事の拙速は、いろいろな示唆に富んでいると思料します。

なお、前述のように歴史を「単なる事後事実=知識の問題」として捉えるのではなく、
  • ・当時の常識や価値観を知識として正しく理解する
  • ・我々が仮に当事者であったとして、得ている情報や因果関係を想像で補う
  • ・そのような「限られた判断材料」を拠り所として、具体的にどのように行動するかを妄想する
というプロセスは、日々のビジネスシーンに必要不可欠な自己研鑽に大きく寄与するものです。
オススメですよ。

ホント、何でも教材になる、どこにでも教材が転がっていますね。
お互い、ボーっと生きてちゃダメですね。

今回は、この変・・・じゃなかった、この辺で。



(どうでもいい一口コラム)
乱、変、役、陣、戦い・合戦の違いとは?

  • ・「乱」とは、時の政権に対する大規模な反乱が権力者によって鎮圧された戦いを指す。
    →応仁の乱、島原の乱
  • ・「変」とは、政権の担当者が倒されることで政治的な変革が起きた戦いを指す。
    →本能寺の変、桜田門外の変
  • ・「役」とは、単に戦争のことを指す。
    →前九年・後三年の役、文禄・慶長の役
  • ・「陣」とは、局地戦や攻城戦などの狭い範囲の戦いを指す。
    →大坂冬・夏の陣
  • ・「戦い、合戦」とは、一般的に戦争を表す。
    →川中島の戦い、関ヶ原の戦い

【プロフィール】

澤口 宗徳(サワグチ ムネノリ)

一般社団法人 日本事業戦略総合研究所(co-founder)理事

東京大学工学部(精密機械工学科)卒業
大和銀行(現りそな銀行)において銀行実務全般および金融工学を活かしたリスク管理業務に従事。
野村證券金融研究所(現、同社金融経済研究所)出向時にクオンツ評価を投資銀行業務に活用する分析手法の開発に従事、出向後は銀行業務全般における業務推進企画に従事。
森トラストグループ投資銀行立ち上げに参画。
現在は、企業経営および新規事業立ち上げに従事。