第4回 |コラム澤口 「『働き方改革』を考察する」           

一般社団法人 日本事業戦略総合研究所(co-founder)、理事の澤口です。
全12回シリーズで、個人的に興味深かったことについて、自由気ままに書き綴って参りますので、お時間がある方はお付き合い下さい。


今回の第4回のお題は「『働き方改革』を考察する」です。

「働き方改革」が叫ばれるようになって数年経ちますが、昨年来のコロナ禍を受け、リモートワークが大幅に進んだ企業が増えたことはよく知られるところです。
この時期は副業を解禁した企業も少なくなく従業員の働き方の選択肢が広がっており、各種メディアでの取り上げも多く様々に論じられています。

ただ、多くの論点は「手段という選択肢が増えたこと」にスポットが当たっており、「手段が増えた目的」に対する議論が尽くされていない印象を持っています。

現在、3回目のコロナ禍対応の緊急事態宣言が発令されていますが、街の人波も、交通機関も、第1回目の緊急事態宣言時と比較して「日常に戻っている」印象を受けますので、リモートワークも死語となったのでしょうか?

ここで、あらためて我々が生きるビジネス世界を考えてみます。
そこは(当然ながら)慈善事業ではなく、利潤・利得が求め・求められる資本主義の世界です。
そして資本主義には企業や従業員に対する考え方の違いから、欧米型と日本型があります。

先に本コラムの結論を言ってしまいますが、「働き方改革」には「人に対する向き合い方」の点で「光と陰の両側面」があります。
現実にマスコミ等には「個人の選択肢の広がり」にスポットを当てるバイアスが存在するのですが、そのバイアスが現役世代の多くの志向潮流を制御し世論が形成されている状況にあります。

私はこの状況に危機感を持っております。

そしてこの「光と影の両側面」を正確に理解するため、ビジネス世界の基本ルールである資本主義、即ち我が国において過去から現代においても繰り広げられている日本型資本主義と欧米型資本主義の対立軸について、我々個人が実務の観点から正しく理解する必要があると思料します。

こうした考察を経ることなく前述バイアスの短期的な視点、「今は楽でいい」とか「自分らしい生き方」とか「スローライフ」のように情緒的に働き方改革と向き合ってしまうと、結果として「人生の選択肢」が狭くなり、経営者やサラリーマンの別なく「没個性の欧米型資本主義の価値観フレーム」に飲み込まれる可能性が高い、と憂慮しています。

後述しますが、労働生産性を巡る国家の政策転換をマスコミは殆ど報道しませんが、中長期的にみた時、我々の働き方改革と無縁どころかガッチリ連動している政策転換であることは明白です。

今回のコラムの目的は前述の「飲み込まれる可能性」に対する警鐘を通じ「時代に即した日本型資本主義の進化形」の考え方の整理を行い、望ましい「働き方改革」の実現に向けた論点整理によって現役世代の今後のビジネス人生の展望に一石を投じることです。
◆働き方改革とは?
所管組織である厚生労働省のHPにいろいろ書いてありますが(各自ご確認を)、要点は以下の通りです。
  • ・2019年4月1日から施行された「働き方改革関連法」に基づく動き
  • ・三本柱
    • ① 時間外労働の上限規制の導入(働き過ぎはイカン)
    • ② 年次有給休暇の確実な取得(豊かな人生をおくろう)
    • ③ 正規・非正規雇用労働者間の不合理な待遇差の禁止(昨今の「同一労働同一賃金」)
言っていることは分かりますが、何を目的としているのか分からん、というのが本音です。

以下、私見です。
『働き過ぎはイカン』に対して
世の中には自身の目的や目標を持ち、自らの意志で激しく働く人が存在する。そういう人からみると「私を巻き込まないでくれ」と言うだろう。
最近流行のジョブ型雇用(古典的RPGのWizardryか?(年齢がばれますね))の機能型就労について、従業員が企業と協議し合意して自らの処遇・待遇を決められる上、仮に合意が出来なければ他企業からのスカウトを模索すればよく(そうしたサービスも広く利用されており)、仕事量やその内容の決定権は従業員側にある。
仮に運悪くいわゆるブラック企業に所属してしまい「雇用契約自体や倫理的問題がある就労を強要される」時は労働基準監督局という強力安全装置の出番であり、新たな議論の余地は無い。
『豊かな人生を送ろう』に対して
有給休暇取得は就業規則に定められる従業員の権利である。就業規則は企業と従業員の間の契約であり、契約遵守は当然のことである。
そもそも昭和の体育会的な発想で「俺は休みを取らないから、お前ら(基本は部下達)「も」休暇を取るな」という考え方自体が旧石器時代的な発想である。
様々な目的や目標を達成するために就労するのであり就労自体には意味が無い、職場に出るだけで就労と呼べるか?
同一労働同一賃金は至極当然である。論点は、企業組織における立場や担当業務において各自が負う業務リスクを「就労評価=賃金にどこまで織り込むか(織り込めるか?)を各場面に即して判断する」ということであって、単純に「同じ業務だから同じ賃金」という議論や主張は「巧遅の反対の拙速」に過ぎない。
お役所の言葉だけ見ていても何も生まれませんね(コラム、終わっちまうじゃねーか!)。

気を取り直して、あらためてエッセンスを抽出すると、「企業(組織)は無機質(血が通っていない)」が「(一方の)経営者や従業員は有機質=人間(赤い血が流れている)」ということであり、有機質=人間に視点を移して考える・・・という見方がスッキリしますか?

この「無機質vs有機質=没個人・合理主義vsにんげんだもの(あいだみつを)」の構図は、思い起こすと我が国における資本主義に対する考え方の攻防=欧米型資本主義と日本型資本主義の対立軸おいて顕著に見られました。

一旦話を脱線させまして、(ご存じの方は退屈でしょうが)我が国の資本主義の現在に至る変遷についておさらいしておきましょう。
◆欧米型資本主義のベースとなるファイナンス理論や金融工学
私がまだ20代のころ、紀伊國屋書店とか三省堂といった大型書店の専門書のコーナーを頻繁にうろついておりました。現在と違って遠視(老眼と呼ぶなかれ)ではなかったので、小さな活字の専門書を読むことに窮屈さはありませんし、当時はネットで本が買える時代ではなく、専門書の類いは大手書店に行かなければ購入は出来ませんでした。

今でこそ有志がネット上に無料のコンテンツをバンバンあげていますので、バイアスに注意さえすれば大抵のことはネットから入手することが出来る時代になりました(いい時代です)。
・・・ソフトウェアだって、開発環境もコンパイラも全部タダで配布してますね・・・(涙目)。
要するに「情報を入手するコスト」が当時と今(実質タダ)とでは隔世的に異なりました。

当時の私は銀行実務・与信判断(=企業融資の方法論)の世界、「BS(バランスシート、貸借対照表)の右上の世界=負債の世界」の住人でした。
一方で証券会社が展開するファイナンスの世界、これは「BSの右下の世界=資本(純資産)の世界」になるのですが、私はこの世界に「甘美な憧れ」を持った学徒でもありました。
銀行の業務出向により某最大手証券会社のクオンツ組織に送り込まれ、EVA(Economic Value Added:経済的付加価値、今流行のエヴァンゲリオンではありません)や、リアルオプションといった当時の最新ファイナンス理論や金融工学に私は「取り憑かれ」、実際の企業評価を通じて実務への展開にのめり込んでいました。資本コスト(後述)の定義を巡って酒場で激論を繰り返すこと・・・しばしばでした。

ファイナンス理論をひとことで言えば、事業(企業もしくはプロジェクト)が稼ぎ出す収益とその事業に投下する(リスクを織り込む)コストとのトレードオフを判断する手段、リターンとリスクを比較して得られる収益率を測る物差しを提供する理論です。金融工学とは、デリバティブ理論に代表される「将来の不確実性=リスクの定量評価」であり、リスク評価を行う上で不可欠な考え方です。

そんな私が最初に手に取ったのが、現在もファイナンスの教科書と呼ばれるブリーリーとマイヤーズ著の『コーポレートファイナンス(そのまんま)』であり、当時は「青い本・黄色い本」の呼称でした(今は別の色になっております)。

私は工学系なので、経営学や(計量)経済学を修めていません。
当時の私は、コンピューターシュミレーションを道具とした実務家の立場からファナンス理論や金融工学の世界に足を踏み入れた珍獣だったと思います。
理系である私はソフトウェアが書けるので、仕組みや論理さえ分かってしまえば(素人の)下手くそなプログラムであっても動くものが作れます。
ファイナンス理論や金融工学により将来財務シナリオ(予測)を数理評価することに情熱を燃やしていました。
◆金融インシデント(バブル経済崩壊の「つけ」)と欧米型資本主義の日本上陸
当時はバブル崩壊後の金融危機の時代、大会社や大手銀行・大手証券会社が次々と経営破綻に追い込まれていた時代でもありました(歴史は各自で紐解いて下さい)。

この文脈において、これまでの日本型経営や日本型経営を実施する組織運営の手法が真っ向から否定され、欧米型資本主義のベースであるファナンス理論やデリバティブ理論のように合理的かつデジタル的に意志決定が下される方法論への「恐怖と憧れ」があった時代です。
第1回コラムの明治時代草創期に似ているかも知れません。

当時の経済社会では大手経済誌や御用学者(誰とは言いません)達が欧米型資本主義を合理的だとしてもてはやし、若造の私も熱に冒されていたと思います。
それがグローバルスタンダードだと喧伝もされ、人事においては成果主義が輝いていました・・・そんな時代背景です。
◆アクティビスト(物言う株主)の登場
私は前述業務出向の後に銀行の個人顧客・法人顧客向け業務企画部門に戻りましたので、個人の素養を除き、ファイナンス理論や金融工学が直接業務上で役に立ったことはありません。

そんな折、同じ企業評価でも「BSの右下の純資産の解散価値(簿価)と時価総額」に着目して「割安な銘柄」を探索した後に大口株主となり、投資企業に対して株主還元策を要求するという手法が勃興してきました。

現在では一般用語になっているアクティビスト(物言う株主)の登場です。

和製アクティビスト第一号として名を馳せた「村上ファンド」について多くの方の記憶に残っていると思いますが、2006年に同ファンドは当時の阪神電鉄社の大口株主となり、投じた一石は関西私鉄業界の再編につながり、現在の阪急阪神HD社が誕生しました。

同ファンドの阪神電鉄社への投資ですが、PBR(後述)の観点から、同社が保有していた大阪西梅田地区等の資産価値に基づく「純資産(解散価値:簿価)」と「時価総額」との「アンマッチ=割安」に着目した投資であったことは広く知られております(PBRで説明します)。

アクティビストの主張はデジタル的かつ明快であり、「企業が長年ため込んだ資産(金融資産および不動産、投資有価証券)は更なる事業投資に投下するために経営者が株主から預かっているものであるが、現経営陣が株式価値向上のため新たな事業投資に向け有効活用が出来ないのであれば、直ちに株主に還元すべきである」というものです。

アクティビストはファイナンス理論に基づき、PBRが1倍を割り込んで「株式市場において株価が放置されている=市場に無視されている」ことを問題視しない経営者は「間抜け」であり、アクティビストの主張に対して「長年の既存株主とアクティビスト(最近ポッと出の株主)は平等ではない」と情緒的な応答しか出来ない経営者も「間抜け」であるという論陣を張り、アクティビストvs(狙われた)経営者の対立を経済誌等が劇場型に仕立てていた印象を持っております。

(補足)PBRとは?
野村證券HPからPBRの説明を抜粋します。

■PBRとはPrice Book-value Ratioの略称で、和訳は株価純資産倍率。
■PBRは、時価総額が会計上の解散価値である純資産の何倍であるかを表す指標である。
よってPBRの算出式は「PBR=時価総額÷純資産(解散価値:簿価)」です。
企業の資産価値を「全ての資産を瞬時に現金化した場合の貨幣価値」と見なし、同資産価値から負債勘定を全て控除した後の純資産(解散価値:簿価)と時価総額(市場評価額)を比較します。
即ち、「PBRが1倍を割り込んでいる」とは、
  • ・純資産(解散価値:簿価)の方が、時価総額より大きい(分母が分子より大きい)
  • ・株を時価で買って企業を解散すれば儲かる、よって割安である
ということを意味します。
PBRが1倍を下回れば下回る程「割安な銘柄」と機械的に判断出来るので、株式投資における古典的な指標の一つです。株式の流動性が低く(浮動株=市場流通株数が少ない)、歴史があり利益剰余金の塊のような企業=自己資本比率が極めて高い企業の場合にはPBRが低位になる傾向が顕著です。
(補足)資本コストとは?
資本コストは解釈が変わる非常に厄介な言葉であり、ファイナンスの専門家であれば本が一冊書ける領域・項目ですが、私なりに一言で説明すると次のようになります。

投資家が、事業やプロジェクトに投資を行う際に「負担を覚悟しなければならないコスト」

事業やプロジェクトが計画通り進まないリスクや、それ自体が破綻してしまうリスクが存在しますが、そのリスクを「年率何%」と定量評価し投資家が負担すべきコストとして認識したもの、それが資本コストです。
◆会社は誰のものか?
アクティビストの主張は「株主は全て平等である」という基本原則に基づきます。

起業された方は実感として分かると思います。
発起時の資本金は極めてリスクが高い金ですが、事業が順調に成長して安定性を確保した際に実行する第三者割当などの資本金(資本剰余金)はリスクがある程度まで抑えられている金です。
当然、前者は額面で株式譲渡を、後者は「しかるべき算定価格」に基づいた価額の株式譲渡を行うので譲渡株価は同じではありませんが、日本的な考え方として当該事例の「前者の株主」と「後者の株主」は心情的に平等ではないことが一般的です。

しかしながら株主平等の基本原則の下、「発起以来の株主」も「昨日に株式市場で購入したばかりの株主」も皆平等です(先ほどのアクティビスト登場の議論を思い出して下さい)。

更に、欧米型資本主義における「会社の持ち主」は(企業の資本コストを負担する)株主ですので、株主は経営者に対して事業再投資に有効活用しない資産処分による株主への還元を、具体的には資産売却金による株主配当増額や自社株買いによる株価向上といった還元策を要求します。
ファイナンス理論の観点からこうした要求は極めて正当な主張であり要求です。

こうしたアクティビストが投じた一石は、前述阪急阪神HD誕生背景のように、日本を二分する議論に発展しました。
◆日本型資本主義とは?
ここであらためて日本型資本主義の本質について簡潔に説明しましょう。

第1回のコラムでも少し触れましたが、いわゆる「三方得」の考え方でして、住友家の家訓である「浮利(ふり)を追わず」という考え方です。

具体的には、事業を行う上で顧客は無論のこと、仕入れ先等の取引先や、資金調達を行う先の銀行や株主、はたまた従業員一人ひとりに至るまでを対象として「全利害関係者(stakeholder:ステークホルダー)全員の最大公約数的な事業成功を志向する」ものです。

利を追わないとは、一過性の裁定取引(arbitrage:アービトラージ)で「周りを犠牲にして一人だけ」激しく儲けることを禁じ、適正利潤を利害関係者全員と分け合う考え方ですので、三方得の代表的な考え方になります。
利害関係者の一方である仕入れ先を犠牲にして「安く買い叩いて仕入れて」、自分は「高く売って」利益を独占するという独善的な企業行動を戒めることになります。

もうお分かりですね、日本型資本主義における「会社の所有者=会社は誰のものか?」は、事業の利害関係者全員となり、株主平等の原則を超え「平等と公平の考え方」となります。

「会社は誰のものか?」

覚えておいて下さい。

(補足)裁定取引とは?
裁定取引とは、「同一の価値を持つ商品」の一時的な価格差(これを「市場の歪み」と言います)に着目し、割高な方を売り、割安な方を買い、両者の価格差が縮小し価格差が解消された時点で各々の反対取引を行う、即ち「売った方を買い戻し」「買った方を売却して利益を獲得する」取引を行うことです。

たとえば全く同じ商品が「別々の場所で」「90円と100円の別々の価格がつけられていた」場合、90円の値段の商品を買い100円の値段の商品を空売り(他者から商品を借りてきて、借りた商品を100円で売っている場所で売る)します。いずれ価格は95円に収斂しますので、収斂した時点で「90円で買った商品を95円で売り」「100円で空売りした商品を95円で買い戻す(買い戻した後に貸主に商品現物を返す)」ことで、片道5円、売買の往復で5円+5円=10円の利ざやが確実に儲かる、という仕組みです。

価格の歪みが頻繁に発生する場合、裁定取引を行えば必ず儲かるため、歪みにプレーヤーが殺到することで歪みは解消されます。

言い換えると歪み自体は一過性であり、裁定取引を志向する者は必然的に新たな歪みの発生を探索し続ける必要があります。
債券の「自動高速(取引サーバーを取引所近接のビルに設置するとか、光速と言っていいかも)取引」がそれに該当します。

この説明はファイナンスの教科書における定義そのものですが、実務的には「市場の歪み=株価の歪みを情報操作により自らの脳内に作り出して他者を出し抜く」ことが「浮利を追う」ことになり、このことをインサイダー取引と呼びます。
(参考)平等と公平の違い
辞書で引くと次の通りです。
  • ■平等:差別がなくみな一様に等しいこと。
  • ■公平:判断・行動に当たり、いずれにもかたよらず、えこひいきしないこと。
実務的言い換えると、こんな感じでしょうか?
  • ◆平等:(何も考えず)人数割り、頭割り
  • ◆公平:合意形成に基づく傾斜配分、この合意形成が論理的である必要がある
年長者が若者に対して「平等と公平の違いは?」という禅問答を繰り広げるケースがありますが(私も複数回投げつけられた経験があります)、言いたいことは「公平における合意形成は人間が考えることなので主観が入りやすく、かつ重い話である」という戒めなのでしょうか?
◆欧米型と日本型の決着は?
当初のアクティビストはPBRを指標としたBSの資産評価に執心し、業界固有の資本コストを考慮しなかった印象を持っています。
具体的に例示すると、製薬会社等の研究開発型の業界に属する企業において、研究開発費の工面や調達を「内部留保(長年ため込んだ利益剰余金である現預金)」か「新株発行や起債による市場からの調達」か「銀行からの借入」で行うかの選択肢があります(ここではクレジットコストを無視して調達だけを論じます)。

研究開発はリスクと向き合う「無から有を生み出す」行為に他なりませんから、資本コストは最上位に高くなります。
既存株主の立場から見ると、市場調達により「新たな株主に登場してもらいリスク(資本コスト)を応分に負担させる」という選択肢もあり得ますが、一方でプロジェクトからの期待収益も新たな株主に配分する必要があるため、現在の内部留保(現預金)を研究開発費に充当することが利に適っていると言えます。

まさかですよ、企業が研究開発費資金を銀行からの借り入れで調達して、返済期限に「研究セクションは一生懸命研究したのですが、商品開発に至らず金も無くなったので返済できません」って言える訳ないでしょ? お金の使い道(使途)とお金の調達手段には「明確な色分け」と「密接な関係」があるということです。

特に決算は一年基準(one year rule)であっても継続企業の前提(going concern)により企業は将来的に続く訳ですから、現在の資産に余裕があるからと言って、近視眼的かつ短絡的に現在の株主に資産を還元すればいいというのは暴論になります。

アクティビストの中には、本来自らが株主として向き合うべき資本コストを無視し、更には資金調達の「いろは(クレジットの概念)」をも無視して「PBRに基づく単なる不等号の世界(純資産:解散価値と時価総額)」で企業評価を行っていた輩(やから)がいました。

一方、本業に全く関係が無い資産を有する場合、例示するとTBSホールディングス社が過去の出資経緯から半導体製造装置大手の東京エレクトロン社の大株主であり、アクティビストファンドの株主提案を受け保有株式の一部を市場売却した経緯がありますが、こうした企業行動は経営効率の観点からも非常に合理的であり、かつアクティビストの提案は極めて正論です。
紆余曲折はあったものの、昨今の欧米型資本主義のプレーヤーは、企業経営に対する外部牽制機能を適切に果たしている印象を持っています。

一方の日本型資本主義の方ですが、本質的な問題点である「馴れ合い」にメスが入れられ、経営効率向上およびリスクファクター回避の観点から、最大の弊害である「株式持ち合い」が劇的に解消に向かいました。特に機関投資家である金融機関は、従来は投資企業(基本は顧客)との馴れ合いの中、株主総会において『白紙委任状』を投じていましたが、現在は各投資企業の開示内容や経営計画を精査して意味のある議決権行使を行うことが当たり前となっています。

機関投資家の投資家である欧米型資本主義のプレーヤーからの牽制機能が働き、機関投資家の資産運用に対する方針を常時ウォッチされているからです。

(補足)株式持ち合いの弊害
特に金融機関を中心として、株式の相互持ち合いが日本的経営文化として存在していました。
「持ち合い」の大義名分として「敵対的買収に対する安定株主工作」という側面があります。
会社が他社の株式を保有するとは「BSの左の下」の投資勘定に資産計上することですが、これは最も流動的な資産である現預金が投資勘定に固定されることを意味し、資産効率の観点から最も効率が悪いものです。

更に投資株式の資産価値が時価評価で上下する場合には会社資産も連動して上下することとなり、評価益や評価損を決算上認識する=益か損を計上することが会計原則で求められます。

敵対的買収に関して、現在のビジネス界の考え方は是正されており、「伊藤忠社のデサント社に対する事例」や「コロワイド社の大戸屋ホールディングス社に対する事例」のように、我が国においても敵対的買収が成立する地合となり「考える株主」が増え、こうした是正を株式市場も容認しております。

これまでの資本主義を巡る議論(脱線?)をまとめると、欧米型資本主義と日本型資本主義は双方が共に実務に即した進化を遂げ、エッセンスの部分が企業統治(corporate governance)に幅広くかつ適正に織り込まれている印象を持ちます。

「どちらの方が優れている」の視点ではなく「双方のエッセンス(=優れていること)が融合されている」ということです。
◆働き方改革に戻ります
話を本題に戻します。働き方改革です。

企業は法人格を有し資本主義の原則で動きますが、そこに働く経営者や従業員は個人格を有して個人の感覚で動きます。
経営者・従業員の別なく、属する企業やプロジェクトに対する有形無形の貢献に対し、対価の報酬や給与を受けております。

前述の厚生労働省が定義する働き方改革は業務内容の変更を意味せず、手段としての労働環境や勤務形態、はたまた副業を通じた自己の選択肢拡充(研鑽による個人のビジネススキル向上)を求めている・・・とは模範解答なのでしょうが、疑問を呈します。
◆欧米型資本主義から見た働き方改革
既に述べた通り、欧米型資本主義において「会社は株主の所有物」であり、そこに働く従業員は「ルールによって運営される駒」に過ぎません。
言い合えると、会社は個々の従業員の将来や人生感に関心がなく、単に労働力として雇用・解雇のオペレーションを行っているに過ぎません。
日本で勃興している正規・非正規の論点は、企業が非正規雇用を「労働力の調整弁として使っている」ことの裏返しになります。

そして欧米型資本主義の根底にあるのは、多様性対応と自己責任の原則、そして人間性悪説であると考えます。

欧米では、宗教や民族(アイデンティティ)の違いが日常一般に存在するので、各自の意向を全部汲み取っていたら一切まとまりませんし、場合によっては殺し合いになってしまいます。「失敗したのはあんたのせい」という自己責任の原則もあります、実力主義と言い換えたらいいのでしょうか?

更に、国民性なのか分かりませんが「二八(にっぱち)の法則」のように「高い割合で『怠ける人間』が存在する」ので、性悪説の観点から怠け者に自由を与えるなどもっての他です。

よって、企業はルールにより従業員を縛り、従業員は自らを認められた権利で守ることになります。

コロナ禍でテレワークシステムを導入する企業が多いそうです。
しかしながら、このテレワークシステムとは「従業員が使用するPCを常時監視する」システムであり、一定時間「マウスが動いていない」とか「webカメラに写っていない」と警告を与えるシステムです。
マウスを「それらしく動かすbot」も存在するようですが・・・
何をやってるのでしょうね。

(補足)bot(ボット)
語源はrobotの短縮形ですが、コンピュータの文脈では「作業を自動化するプログラム」です。
前述例では、PC画面上で「意味ありげ」にマウスポインタが移動し、定期的にスクロールやウインド切り替えを行うプログラムを指します。

システムが人間を管理するとは「人間を駒として扱う=没個性」であり、前述の多様性対応や性悪説等に基づく欧米型の考え方に他ならず、日本的な考え方にそぐわないと思料します。一方で、こうしたシステムを導入しなければ「家庭(リビング)が職場になる」ことへの精神的抑止力にならないと考えるのも仕方ないことかも知れません。

私は、人間に合理性を求めるには限度があるのでルール一本で縛ることは実務上無理であると認識し、合わせて経営者と従業員との間で「なぜこの業務が必要か?」「この業務が会社業績にどういう貢献があるか?」という合意形成が必要であると思料し、このような機械的監視システム(の導入)に反対です(安心して下さい、私の方が「某●view」より面倒です!)。
◆副業について
一方の働き方改革の目玉である「副業」はどうでしょうか?
副業は読んでそのままですが、賛成および反対の意見を列記するとこんな感じでしょうか?
  • ▼賛成意見
    • ・(単純に)所得が増える
    • ・趣味を実益につなげることが出来るので、自分らしい生き方が出来る
    • ・違う見識やネットワークを得ることから、本業の幅も広がる
  • ▼反対意見
    • ・情報管理の観点から漏洩リスクを懸念(特に同業他社)
    • ・副業で怪我や事故に巻き込まれるなど、体調管理がおろそかになる
    • ・本業への集中力が分散される、「どっちが本業なのか」という企業忠誠心の問題
全ての意見に「何が欠落しているか」と言えば、
  • ・どの立場で(その)本業に従事しているか(経営者・管理職・一般従業員・非正規被雇用者?
  • ・日常業務において、各自はどのような業務リスクを負担しているか
  • ・本業と副業の関連性(ありなし)の論点が整理されているか
  • ・企業としての推進ポイントと懸念点を具体的に評価しているか
といった視点や判断基準がないことです。
やはり「はやりとしての潮流」だけが一人歩きしていることへの違和感を持ちます。

私は経営者として「全く脈絡がない複数の事業」に従事しておりますが、「何が本業で何が副業か」という考え方を持っておらず「全てが等しく本業」です。
副業を論じる際に「主と副の議論」が脆弱過ぎると感じておりますが、その根本原因は前述各論を尽くしていないので「主と副の議論」に至らず、結果として様々なリスク評価が出来ていないからであると思料します。
◆日本型資本主義から見た働き方改革
日本型資本主義が優れている点は「会社は全利害関係者=全ステークホルダーのもの」という考え方にある、言い換えると従業員にも必然的に焦点を当てる点であると思料します。

この考え方に基づき、一旦、働き方改革や副業を整理します。
  • ・従業員との合意形成がなされていない働き方改革は、表面上の対応(手段の多様化)に過ぎない。
  • ・働き方改革とは、経営者や従業員の別を問わず、画一的な対応を「当てはめる没個性」ではなく、更には手段に寄ることでもない。
    中長期的な時間軸を持った企業理念と働く各個人の人生(観)との合意形成を行うこと、言うなれば「双方の最大公約数としての働きがいを探し求める」ことである。
  • ・副業は最終的には従業員が自ら望み考えることであるが、本業との関係性の有無に関わらず推奨すべきであり、企業と働く者は存在する各論点で合意を行うべきである。情緒的な議論をやめよ。
◆労働生産性を巡る議論、欧米型資本主義に基づく価値観フレームの危険性
最近、効率性という言葉を耳にすることが多くなりました。
一例を挙げると「労働生産性」という言葉があります。

日本は世界的に見て労働生産性が「極めて低い国家」として認識されており(後述)、その根底には「企業数の99%以上を占める中小・零細企業における労働生産性の低さ」があると考えられてきました(えーと、大企業にも制度疲労ありまくりじゃねーの?)。

(補足)労働生産性の定義
一般的に「生産性」を定義しますと「生産性=産出÷投入」となります。
ここで「労働」という枕詞(まくらことば)が付きますので、次のようになります。
  • ・労働生産性における産出:労働により生み出され付加された経済的価値
  • ・労働生産性における投入:労働に投入したものの経済的コスト(労働時間や就業人数=人件費)
労働生産性を向上させるためには、(当たり前ですが)次の操作が必要です。
  • ・分子を増やす → 付加価値を増やす(品質向上により価格競争力を維持する・・・浮利ではない)
  • ・分母を減らす → 労働時間や就業人数を減らす(効率化と呼ぶ)
(補足)労働生産性の他国との比較
国家の労働生産性の分子はGDP(国内総生産)、分母は就業者数or就業者数×労働時間とのことです。
日本の労働生産性は先進7カ国(G7)で最低と酷評されています。

労働生産性を巡る話を学者風に言うと、「日本人の労働時間が長い=労働生産性算出の分母が大きい」となり、単純に「労働時間を短くする」「労働時間短縮の効率化を進める」となるのでしょうが、総論を口で言うのは簡単です。

個人的には、従来から国が「労働生産性の低さ=効率性の悪さ」を敢えて問題視しなかった印象を持っておりましたが、これは政治家が選挙対策のために「国民の耳当たりが悪いことを言ってこなかった」側面があり、日本型資本主義の弊害である「馴れ合い」が発揮されてきたと思料します。

昨今の日本の農業における「保護主義と(TPPや二国間協議のような)市場開放圧力との攻防」は、従来の国の農業政策が保護主義=地方有権者(農家)の味方でしたので、市場開放政策は農業に大きなダメージを与えると思料します。

しかしながらコロナ禍の有事の現在、企業や業界の再編を積極的に推し進め、産業構造や人の働き方にまでメスを入れるといった重畳的な政策の覚悟を感じます。

昨今の働き方改革とは、労働生産性向上=国際競争力向上を意識した政策であることは自明の理です。

こうした痛みを伴う環境変化や改革、産業の新陳代謝は必須であり、言わずもがな「国家100年の計」に照らし間違いなく実践しなければなりません。
一方、こうしたうねりが我々ひとり一人や次の世代にまで影響を与えており、我々にとって一番身近な働き方さえも「飲み込まれていく」状況にあります。

時代のうねりは個人ではどうしようもないので、我々は環境変化として受け入れるしか方法がありません。
小惑星の地球衝突により恐竜を始め生物が絶滅しましたが(K-T絶滅事件)、哺乳類の祖先は究極環境を生き残りました。
私たち一人ひとりは「恐竜になるのか、はたまた哺乳類の祖先になるのか」の瀬戸際にあると思料します。

そして、当該うねりは効率主義および没個人の欧米型資本主義の根幹部分でもあり、優勝劣敗(=嫌いな言葉ですが勝者と敗者を生み出すこと)を積極的に巻き起こす考え方です。
この理解がないまま、働き方改革を能動的に捉えることなく受動的に向かうならば、いずれは時代の価値観や社会制度、はたまた所属組織から没個性=駒として使い捨てにされる運命にあることは明白であると思料します。労働生産性は容赦してくれません。

「仕方ない部分」と「対処可能な部分」を混同して行動してはならない、第3回の「有事の拙速」でも主張しましたが、自分の判断軸を持ち自らの頭で考えることの重要性を強く思料します。
◆日本型資本主義の進化と働き方改革とは?
これまでの論点を踏まえ、実務家の立場から、日本型資本主義の進化の観点から働き方改革を定義して提言します。
株主は企業を株主総会として所有するが、企業という場(物理学で言う「場」に等しい)は、従業員を中心とした利害関係者(ステークホルダー)全員に対して債権や権利という形で公平に帰属することを株主は認識すべきである。
株主から企業経営を委託される経営者は、当該認識を原理原則として経営執行すべきである。
コロナ禍は言うに及ばず、企業が今後直面する「社会的うねり」をものともせず中長期的に成長して発展するには、株主のみならず、ステークホルダー全員の価値や権利の極大化を目的として「働く人たちを守る様々な施策を立案し実施していく」ことが必須である。
リモートワークは職場(前述の場)の定義や働き方の選択肢を広げる仕組みであるが、積極的に導入する上で障害となる人間性悪説を明確に否定しなければならない。企業は資本主義世界に生きており甘えは許されない。一つの対応策として、従業員自らが積極的に「業務の棚卸し」や「業務効率の追求(生産性向上)」を企業に発信して成果報告を行うことが考えられる。
従業員の権利について、就業規則に定義された従業員の権利は「遠慮も臆することも無く」行使すべきであり、企業には同権利行使に対する寛容性が必要である。
リモートワークを進める上の弊害として「個人と個人のつながりが希薄になり分断される」ことが指摘されているが、これは手段としてのリモートシステムの議論の範疇に他ならない。
経営者と従業員が前述のように相互信頼を高め、双方が適宜かつ積極的に発信を行えば、リモートにおいてもコミュニケーションの質を高め維持することは可能である。
更にリモートワークの本質が、単に「職場に出なくて良い」ではなく、年齢を重ね人生環境が変化する中で、従来は不可能であった「職場の選択肢を増やす」ことにあることを認識すべきである。介護で離職して地元に帰らなければならない事例のように、事情によりやむにやまれず職場を離れなければならない事例こそ、真にリモートワークを駆使する場面である。
このように、働き方改革は無機質に労働生産性を高める施策ではない。
(繰り返すが)有機質=人の「働きがい=生きがい」の極大化を目指すものであり、その実現には「同じステークホルダーとして」「時間軸をもった中長期的な企業(理念)」と「従業員の人生観」との合意形成が必須である。

副業は従業員の働き方の選択肢を広げるが、従業員および企業の双方にリスクが存在するため、双方が双方の高度なコミュニケーションの下で対応することが前提である。
経営者は、従業員が企業の内外を問わずに起業し「一国一城の主」となり、双方が共に発展する施策も認めるべきである。
即ち、経営理念としての三方得は言うに及ばず、従業員との関係における三方得を重視すべきであり、その際の企業統治策とて企業が従業員起業会社に出資することも選択肢ではないか?

私は、企業を「場」と認識し、場に生きる有機質=人としての「働き方改革」を考察しました。

今回はこの辺で。