第8回 |コラム澤口 「平和を想う」           

一般社団法人 日本事業戦略総合研究所(co-founder)、理事の澤口です。
全12回シリーズで、個人的に興味深かったことについて、自由気ままに書き綴って参りますので、お時間がある方はお付き合い下さい。


今回の第8回のお題は「平和を想う」です。
今年も8月がやってまいりました。

今から40年以上前、中学生の頃に知った日本帝国海軍・正規空母の造形美と機能美、そして(真珠湾攻撃が1941年昭和16年12月)1942年昭和17年6月のミッドウェー海戦において同正規空母4艦が誠にあっけなく壊滅した理由を探求し始めて以来の日本帝国海軍艦艇オタクです。

艦艇オタクは横に置いて、先の大戦を精緻に知れば知るほど、必然的に昭和初期から開戦・戦中・戦後に至る当時の日本社会の変遷や開戦を巡る道筋(実は陸軍海軍双方が対米開戦を望んでいなかった)、各軍事作戦を巡る経緯と顛末、そして民間人を含めたアジア諸国および沖縄・本土における膨大な数の歴史的悲劇に触れることになります。

前々回、前回と奇しくも現在のアメリカ政府の核攻撃に対する公式見解を題材にしましたが、戦争当時のアメリカ政府やアメリカ軍の視点から、日本の民間人に対する攻撃(東京大空襲や2発の核攻撃)を調べた際には、「戦争の本質」とは実は「人間の本質」であり、高度なテクノロジー(爆縮とかVT信管とかマジでスゲー)開発の裏で、「ひとたび動き出したプロジェクトを誰も止められない」という現在の組織論にも通じる人間臭さを見ました。
そして私の帰結として、世界史の常識が「戦争は外交の一手段」と主張するとしても、自国民および他国民に対して多大なる出血を強いることを全否定する非戦論者です。

戦争を理解するとは、被害者側の悲劇性に焦点を当てるのみならず、勝者である加害者側が利己的に主張する正当性も考察する(頭で理解し、心で共感しない)ことです。
戦後日本において、この後者の考察が圧倒的に足りないことを憂います(なぜ原爆が開発され、かつ日本に使用されるに至ったのかの歴史経緯を精緻に知っている人は、長崎・広島でも少ない筈です)。
そして歴史は勝者により形成されますが、勝者が利己的に主張する正当性を考察する工程とは、古今東西の人間の愚かさを紐解く工程でもあります(この話題になると筆が止まらなくなり内容が大幅に脱線しますので、本コラムではこれ以上触れません)。

私は、若手銀行マンだった90年代半ばに、恥ずかしながらそれまで存在を知らなかった岩波文庫の「きけわだつみのこえ:日本戦没学生の手記」とその第2集という「2冊の文庫本」を偶然手に取りました。
この2冊には、戦死していった学徒兵の方々の日記や手紙の手記や遺書が収められており、軍国社会および軍国教育の被害者である若者達の文章に対し、共感と共に全く逆の批判的感情を持って読みました。

その中で、とりわけ上原良司氏の文書に敬意を持って接していました。

今回のコラムは、私が上原良司氏の「第2の遺書」と呼ばれる文章「遺書」を深く考察するに至る経緯と感じた違和感、そして「若者の精神の生木(なまき)を裂く」という残酷を冷徹に論じることで、平和を享受する現代日本社会の一員として、あらためて先人達に感謝の気持ちを持ち寄り添うことが目的です。
世界的に認識されている「日本人の精神世界」についても私見を述べ、最後に上原良司氏の精神世界の結晶である第3の遺書「所感」を解釈します。

今回は経営コラム的ではないお題かも知れません。
しかしながら、精神世界はビジネスを含め全ての価値観の根幹であり、このお題は日本人である以上避けては通れません。
このコラムをお読みの方々で本コラムのお題について深く思考した方は(失礼ながら)殆どいらっしゃらないと思いますので、皆様のご参考になれば私の望外の喜びです。

以下、鎮魂の意を込めて向き合って参りますので、しばしお付き合い下さい。
◆学徒出陣とは?

出陣学徒壮行会のニュース映像は当時の軍国日本を象徴するものであり、ドキュメンタリー番組等で頻繁に取り上げられていますから多くの方がご覧になったでしょう(YouTubeにあります)。

昭和18年10月21日、みぞれ降りしきる明治神宮外苑競技場の陸上競技トラックを2万5千人の学徒兵が銃剣を装着した38式歩兵銃を肩に行進し、勇壮かつ悲愴な学徒代表の宣言(江橋慎四郎氏の一節「生等(せいら=自分達学生のこと)、もとより生還を期せず」が有名)の後、首相の東条英機が「○○陛下万歳」と叫び一同唱和したアレです。
あの行進曲を聴くと・・・陰鬱な気持ちになります。

学生に対する徴兵について、兵役法の規定により当時の高等教育機関の学生は26歳まで徴兵を猶予されていました。
しかしながら戦況悪化・兵力不足を受け、当時の東條英機内閣が昭和18年10月1日に「在学徴集延期臨時特例」を公布し、理工系と教員養成系を除いた「文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵猶予を停止」しました。
このことにより20歳以上の文系学生の徴兵が可能となった訳です。
この徴兵猶予の停止により文系学生を徴兵したことを学徒出陣と呼びます。

上原良司氏は長野県安曇野の出身、慶應義塾大学経済学部の学生であり、前述の文系大学生の徴兵猶予停止により大学を繰り上げで卒業して学徒兵になられ、出陣学徒壮行会にも参加されたそうです。
上原良司氏は、映画のオマージュやドキュメンタリー番組などの様々な場面で取り上げられておりますので、ご存じの方は多いかも知れませんね。
◆違和感を持って読んだ上原良司氏の「遺書」

以下に「きけわだつみのこえ:日本戦没学生の手記」に掲載されていた上原良司氏の「遺書」を掲載します。
この文章は、上原良司氏が最後に帰郷した昭和20 年4月上旬頃(戦死は5月11日)に書かれたというのが定説になっております。

刮目してお読み下さい。


生を享けてより二十数年、何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。
温き御両親の愛の下、良き兄妹の勉励に依り、私は楽しい日を送る事が出来ました。
そして、稍々もすれば、我儘になりつつあった事もありました。
この間、御両親様に心配を御掛けした事は兄妹中で私が一番でした。

空中勤務者としての私は、毎日毎日が、死を前提としての生活を送りました。
一字一言が、毎日の遺書であり遺言であったのです。
高空に於ては、死は決して恐怖の的ではないのです。
この儘突込むで果して死ぬのだらうか。
否、どうしても死ぬとは思へませんでした。
そして、何か斯う、突込むで見たい衝動に駈られた事もありました。
私は決して死を恐れては居ません。
寧ろ嬉しく感じます。
何故なれば、懐しい龍兄さんに会えると信ずるからです。

天国に於ける再会こそ、私の最も希ましき事です。

私は、明確に云ヘば、自由主義に憧れてゐました。
日本が真に永久に続く為には自由主義が必要であると思ったからです。
之は、馬鹿な事に見えるかも知れません。
それは現在、日本が、全体主義的な気分に包まれてゐるからです。
併し、真に大きな眼を開き、人間の本性を考へた時、自由主義こそ、合理的になる主義だと思ひます。

戦争に於て勝敗をえんとすれば、その国の主義を見れば、事前に於て判明すると思ひます。
人間の本性に合った、自然な主義を持った国の勝戦は火を見るより明であると思ひます。

私の理想は空しく敗れました。
人間にとって一国の興亡は、実に重大な事でありますが、宇宙全体から考へた時は、実に些細な事です。

離れにある私の本箱の右の引出に遺本があります。
開かなかったら左の引出を開けて釘を抜いて出して下さい。

ではくれぐれも御自愛の程を祈ります。

大きい兄さん清子始め皆さんに宜しく。

ではさようなら御機嫌良く。
さらば永遠に。

御両親様     良司



『きけ わだつみのこえ』第一集(旧版):岩波文庫

当時の大学生の文章力・表現力に驚愕します。

ただですね・・・
この「遺書」を何度も読み返している中で、当時の私はふつふつと湧いてくる違和感を禁じ得ませんでした。
是非とも読み返して、その違和感を感じ取っていただきたいです。

私の違和感は、ずばり「パラグラフが削除されているのでは?」という疑惑でした。
疑惑1
パラグラフ「高空に於ては、・・・」と次のパラグラフ「私は、明確に云ヘば、自由主義に憧れてゐました。・・・」との間に「奇妙な間」を感じます。
「死を恐れない」若者などいるはずがないのに、「天国での再会が楽しみ」とまるで臨場感と実感がありません。
疑惑2
パラグラフ「人間にとっては一国の興亡は、・・・」と次のパラグラフ「離れにある・・・」の連続も妙にあっさりしています。
考えてみて下さい、この文章を書いているのは「戦死することが決まっている若者」です。
しかも、その死は「自らが操縦する航空機もろともアメリカ海軍艦艇に突入する」という自殺です。
出陣前に最後の帰郷を果たしている状況ですが、家族にも事実=死ぬことを打ち明けられない・・・
そしてこれが今生の別れであることも・・・。

こうも淡々と自分の死を受け入れられる訳がないでしょ?
もっと「生への渇望」というか「無念」というか「絶望感」の表現があってしかるべきなのに妙に淡泊であっさりしている・・・。

私が疑ったのは、第三者の校正により本音表現が削除されているのではないか?ということです。
仮にそのような校正が「きけわだつみのこえ」の編集過程で行われたとして、上原良司氏ご本人に対して無礼千万ではないか?という怒りに近い感情を持ちました。
どーにもこーにも腑に落ちず、さりとて正解不正解も分からず、当時の私は悶々としていました。
◆「遺書」のコピーが鹿児島・知覧にある!

この違和感を払拭するには、原本もしくはコピーを拝読するしかありません。

そんな折、偶然見たドキュメンタリー番組で当時の上原家の方(確か妹さん)が出演され、「コピーが鹿児島・知覧の特攻平和会館に展示されている」ことが語られていたのでした!

知覧に行けば「遺書」が読める、確認できるってよ!と。

季節は1997年8月の夏真っ只中、勤務先の銀行では「9連休(土日を付けて連続9日間の休暇取得)」という制度がありまして、私は彼女もおらず9日間を持て余すこと必定ですし、銀行からは休暇を消化しろとうるさく言われていましたので、月曜日に東京を発する鹿児島・知覧行きを考えました。

現在は既に廃線になりましたが、当時は「東京駅18時発西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)行きの寝台特急ブルートレイン」がありまして、西鹿児島駅までほぼ1日(21時間)かかるものの貧乏社会人にはリーズナブルだったので、適当に荷物を鞄に放り込んで寝台特急に飛び乗りました。

偶然とは重なるもの、夜19時のNHKニュースのラジオ放送を車中で聞いていた時、「きけわだつみのこえ第一集を改訂した『新版きけわだつみのこえ』が出版される」というニュースに触れました。

現在書店で入手出来る第一集がこれに該当しており、私が鹿児島・知覧で読むことになる「遺書」もそのまま掲載されています(若干のネタバレになっております)。
偶然とは「げに恐ろしい」、私はラジオを聞きながら運命を感じました。

大阪を22時、美しい朝焼けの瀬戸内を車窓から生まれて始めて見たのが5時、下関が8時、西鹿児島が15時と、あっという間の寝台特急の旅でした。
◆鹿児島に着いたものの・・・

西鹿児島駅に着きまして、計画性ゼロの旅ですから宿も決めておらず、ガイドブックを片手にホテル手配に着手しました。

しかしながら、当日から数日連続で鹿児島市内で全国の教育者が集まるカンファレンスが開催されており、どこのホテルも満室で宿泊出来ません。
知らない土地で途方に暮れ、西鹿児島駅前の「若き薩摩の群像(今もありますね)」のたもとで360度見回した時、駅を背にして「3時の方向」に1階が居酒屋のビジネスホテルを運良く見つけたので野宿せずに済みました。

で翌日に「知覧へ・・・」とはいかなかったのです。
行けば「欠落してもの」が具体的に分かるだろう、それは残酷そのもの・・・。
「行かなかった」のではなく、正確には「行けませんでした」。

鹿児島2日目を鹿児島観光にウダウダと費やし、博物館の黎明館とか西郷南洲顕彰館、そして村田新八氏(新ぱっつぁん)に会いに南州墓地(なんで人斬り半次郎が「この位置に」・・・)、はたまた私学校生がやらかした「鶴丸城石垣の銃創」とかつぶさに見て単なる観光客と化していました(城山には行きませんでした、理由はご想像にお任せします)。

夜は、ビジネスホテルの一階の居酒屋でビールを飲みながら定食みたいな飯を食べていたのですが、その居酒屋のオヤジが「ビールしか飲まないシケたヨソ者」に業を煮やしたのでしょう、人懐っこく話しかけてきた
「折角鹿児島に来たなら芋焼酎呑め」
「(真夏なのに)お湯割り一択で呑め」
という感じで人生初の芋焼酎(島美人のお湯割り)をそれこそ無理矢理飲まされ、芋臭さにクラクラしつつも初めての味わいを発見して感動してそのオヤジと仲良くなった訳です(その日の鹿児島テレビのニュースで、鹿児島県のアンテナショップである「鹿児島遊楽館」が東京・有楽町で営業していることを知り、東京に帰ってしばらく芋焼酎に入り浸りました・・・)。

オヤジは私に興味を持ったらしく、自分でお湯割りをガンガン作ってガンガン飲みながら(お前の商品をお前が呑んでいいのか?と思いましたが)、私がなぜ鹿児島に来たのかの理由を聞いてきましたので正直に話しました、

「知覧に来たんだ、でも今日は行けなかった」
と。

映像として鮮明に覚えています、オヤジは悲しい目をして
「そうか知覧か、あそこは悲しいなぁ、山形屋のバス亭から知覧行きのバスが出ている、1時間ちょっとで着く」
と言って、それ以降は馬鹿話しかしなくなりました。
私もオヤジが見せる悲しみから悟り、ここまで来ておめおめと撤退する訳にはいかんと覚悟を決めて、鹿児島3日目は知覧に行く決心を固めました。
◆知覧へ、そして特攻平和会館へ

鹿児島3日目の朝、居酒屋のオヤジに教わったように山形屋デパートのバス停からバスに乗り込みました。
ですが、行く道すがら、胃のあたりが「わさわさ」と落ち着かなかったです。
目指すバス亭は「特攻観音入口」なのですが、私はたまらずに同じ知覧町の手前の「武家屋敷入口」というバス停で降りてしまいました。

やはりこのまま帰ろう・・・と。

なお武家屋敷は、旧薩摩の武家屋敷の道並みが再現されている観光スポットです。
バスから降車し歩道に降り立ち、車道と歩道を区切る欄干を見てハットしました。
欄干が「飛行兵のゴーグル」の意匠であり、道に沿って連々とつながっている・・・。
「これはとんでもないところに来てしまった」と再度覚悟を決めて、特攻平和会館を目指してとぼとぼと歩いて行きました。

それから30分ぐらいウダウダ歩き、目的地の特攻平和会館を見つけました。
蝉がうるさい季節です、道を歩いてきて汗だくの状態です。
館の入り口の自動ドアが開き一歩足を踏み入れた時、かつて感じたことがない異様な雰囲気を感じました。
圧というか、密度が高い「何か」に入っていくというか・・・。

私は「見える口」ではありませんし、心霊現象も信じませんが、真夏の汗だくの屋外から冷房が効いた館内に入っていく感覚ではないことだけは確かです。
正確には「入ってくるな」と拒否されている感じです。
何一つ展示物を見ていない状態で「あれ」ですから、「見える口」の方は卒倒するレベルかも知れません。

特攻平和会館に行かれたことがある方はご存じの通り、館の側面の壁には特別攻撃で戦死した方々の小さなポートレートがビッシリかつ整然と展示され、そのポートレートの前のガラス展示棚に当該兵士にまつわる遺品や手紙といった展示物が「ところせまし」と展示されています。
私は館の入り口から反時計回りに上原良司氏を探しました。

余談ながら、知覧特攻平和会館は「一生に一度は行くべき場所」であると思料します。

URL:知覧特攻平和会館<外部サイト>
◆上原良司氏の「遺書」に感じた違和感の正体

壁のポートレートから上原良司氏を探し出すのに時間を要しません。
そして、縦10センチぐらい、横30センチぐらいの横長の遺書の小さなコピー(原本は遺族が保管との注意書きも確認)をガラス展示棚に発見し拝読しました。
そして私の違和感は残酷にも的中しセンテンスが削除されていたことを知りました。
該当箇所も概ね想定していた通りでした。

以下、「遺書」の原文(旧仮名遣い)です(黄色マークが削除原本から削除されていた箇所、その他校正内容も全て有効にしております)。


生を享けてより二十数年、何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。
温き御両親の愛の下、良き兄妹の勉励に依り、私は楽しい日を送る事が出来ました。
そして、稍々もすれば、我儘になりつつあった事もありました。
この間、御両親様に心配を御掛けした事は兄妹中で私が一番でした。
それが、何の御恩返しもせぬ中に先立つ事は心苦しくてなりませんが、忠孝一本、忠を尽す事が、孝行する事であると云ふ日本に於ては、私の行動を御許し下さる事と思ひます。

空中勤務者としての私は、毎日毎日が、死を前提としての生活を送りました。
一字一言が、毎日の遺書であり遺言であったのです。
高空に於ては、死は決して恐怖の的ではないのです。
この儘突込むで果して死ぬのだらうか。
否、どうしても死ぬとは思へません。
そして、何か斯う、突込むで見たい衝動に駈られた事もありました。
私は決して死を恐れては居ません。
寧ろ嬉しく感じます。
何故なれば、懐しい龍兄さんに会えると信ずるからです。

天国に於ける再会こそ、私の最も希はしき事です。

私は所謂、死生観は持って居ませんでした。
何となれば死生観そのものが、飽まで死を意義づけ、価値づけようとする事であり、不明確な死を怖れるの余り、なす事だと考へたからです。
私は死を通じて天国に於ける再会を信じて居るが故に、死を怖れないのです。
死をば、天国に上る過程なりと考へる時、何ともありません。


私は、明確に云ヘば、自由主義に憧れてゐました。
日本が真に永久に続く為には自由主義が必要であると思ったからです。
之は、馬鹿な事に聞えるかも知れません。
それは現在、日本が、全体主義的な気分に包まれてゐるからです。
併し、真に大きな眼を開き、人間の本性を考へた時、自由主義こそ、合理的なる主義だと思ひます。

戦争に於て勝敗をんとすれば、その国の主義を見れば、事前に於て判明すると思ひます。
人間の本性に合った、自然な主義を持った国の勝戦は火を見るより明であると思ひます。

日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。
この上は只、日本の自由独立の為、喜んで命を捧げます。
人間にとって一国の興亡は、実に重大な事でありますが、宇宙全体から考へた時は、実に些細な事です。

驕れる者久しからずの例へ通り、若し、この戦に米英が勝ったとしても、彼等は必ず敗れる日が来る事を知るでせう。
若し敗れないとしても、幾年後かには、地球の破裂に依り、粉となるのだと思ふと、痛快です。
加之、現在生きて、良い気になって居る彼等も必ず死が来るのです。
唯、早いか晩いかの差です。


離れにある私の本箱の右の引出に遺本があります。
開かなかったら左の引出を開けて釘を抜いて出して下さい。

ではくれぐれも御自愛の程を祈ります。

大きい兄さん清子始め皆さんに宜しく。

ではさようなら御機嫌良く。
さらば永遠に。

御両親様     良司より



知覧特攻平和会館展示『上原良司氏 遺書』コピーより

無念です、キーワード「死生観」と「早いか遅い(晩い)か」に気持ちが込められていた!

あとは・・・
赤の他人のことなのに人前で号泣したのは後にも先にも私の人生であの時だけです。

他の来館者も多数いましたが、私は遺族だと思われたでしょう。
とにかく無念で悔しかった。
その後は放心状態で、常展示の(改悪型の)零式艦上戦闘機五二型丙も見ずに鹿児島市内向けのバスで帰りました。

その日の夜、件の居酒屋のオヤジが話し掛けてきて
「知覧に行ったか?」
と。
私が「行ってきた」と話したのを聞いたっきり、オヤジは一言も話しません。
我々二人は黙々と芋焼酎のお湯割りを呑み続け、芋焼酎のアルコールと所感の解釈で脳がグルグルしておりました。

翌日、鹿児島空港から羽田空港に帰りましたが、飛行機の窓から見た「雲海の上の真っ青な空」を見て、ただ無性に悔し涙がこぼれてきたことを覚えています。
着いた羽田は小雨降る曇空でした。
◆削除の理由

私なりに上原良司氏の原文「遺書」に校正(削除)が加えられた理由を解釈します。
第1の削除

それが、何の御恩返しもせぬ中に先立つ事は心苦しくてなりませんが、忠孝一本、忠を尽す事が、孝行する事であると云ふ日本に於ては、私の行動を御許し下さる事と思ひます。

「生きたい」と「死を受け入れる」という真逆の揺れ動く気持ちにおいて、当時の社会通念である「忠孝」を持ち出して自らを律している部分ですが、それは若者の本音である筈もなく、非常に悲しい表現です。

「きけわだつみのこえ」が編纂されたのは戦後ですから、軍国主義下において散々に人々を苦しめて死に追いやった「忠孝」という(ある意味)便利な言葉を否定する目的のために削除したと思料します。
この部分には特にメッセージは無く、校正が行われたのが戦後であることを踏まえると、この削除は理に適っていると思料します。
第2の削除

私は所謂、死生観は持って居ませんでした。
何となれば死生観そのものが、飽まで死を意義づけ、価値づけようとする事であり、不明確な死を怖れるの余り、なす事だと考へたからです。
私は死を通じて天国に於ける再会を信じて居るが故に、死を怖れないのです。
死をば、天国に上る過程なりと考へる時、何ともありません。

「死は恐ろしくない」という主張の根拠を説明している部分になり、その根拠が死生観にあると主張します。
「死生観を持っていないので死そのものに意味は無い」「だから恐れない」という展開ですが、敢えてロジックを外してニヒルに構えている印象を受ける表現です。

確かに彼の周りでは初恋の人も含めて若くして多くの人間が亡くなっており、その文脈で寂しさをはぐらかす目的により死生観を持ち出すことに個人的共感を覚えます。

私自身、若い時に超絶優秀な仲間を病気で亡くした時、その男が「命の灯が燃え尽きる最後の瞬間まで病室で勉強していた」ことをヤツのお袋さんからお聞きした際に、「この世代のtop of topsが『10万人に1人の病魔』によって早世した」という衝撃を受け入れることが出来ず、更には自らの生を肯定することが出来なくなった私は、上原良司氏が主張する死生観の意味づけを今も思い出し考え続けております。

一方で、実際に自分が死に臨む場面を想定した時、煩悩な私がそんなニヒルに死生観と向き合えるはずがありませんから、私の「今も考え続けている」とは平和ボケのパフォーマンスに過ぎないと自ら断じることが出来ます。

あらためて上原良司氏の立場に立ち当該表現を考えると、彼が自らの死を受け入れることを強制されている中で、彼が親近者の死と絡めた「自らの死に対する死生観」を述べずして死に向かうことはあり得ませんから、この削除はご本人に対して極めて失礼であると思料します。
第3の削除

日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。
この上は只、日本の自由独立の為、喜んで命を捧げます。

「日本を昔日の大英帝国の如くせんとする」は明確に帝国主義を表現しており、戦後の風潮として帝国主義を否定する意味で削除したと思料します。

「この上は只、・・・」の部分は、軍国主義社会の一員としての発言であり、前述の流れのように戦後風潮にそぐわないので削除したと思料します。

ただですね・・・「遺書」の校正においてはそれだけのことであり、この「遺書」だけなら違和感を持ちませんが、実は上原良司氏の「第3の遺書」と呼ばれ出撃前夜にしたためられた「所感」(後述します)を読むと彼が込めたかった真意が分かり、実は前者の削除が適切ではないことが分かります。

「所感」の内容を考慮せずに「遺書」の本校正を行うことに、「きけわだつみのこえ」の編者の未熟さを感じます。
第4の削除

驕れる者久しからずの例へ通り、若し、この戦に米英が勝ったとしても、彼等は必ず敗れる日が来る事を知るでせう。
若し敗れないとしても、幾年後かには、地球の破裂に依り、粉となるのだと思ふと、痛快です。
加之、現在生きて、良い気になって居る彼等も必ず死が来るのです。
唯、早いか晩いかの差です。

この部分こそが一番本音が出ている、「生きたいのに死ななければならない」という恨み辛みが凝縮されている部分です。

この部分を読んで無念で悲しく、人目を憚らずに泣きました。
前述の死生観など吹っ飛んでしまい、生への渇望が全面に出されている極めて人間らしい部分です。

表現が表現なのでGHQに忖度して削除したと思料しますが、第3の削除同様に「きけわだつみのこえ」の編者の未熟さを呪います。
もっと校正の方法があるだろー!馬鹿ヤロー!と。
私は歴史家でも評論家ではありませんので、当該校正(削除)の理由および本意を知りませんし知るよしもありません。
意図がある校正(削除)であれば私の憤激は正しいと思料しますが、意図が無い「何も考えていない」校正(削除)であれば憤激する意味は全くありません。

上原良司氏の著述に対する他の研究者の見解として、「『きけわだつみのこえ』の紙面の都合」、要するに「掲載出来るスペースという物理的な問題」から校正(削除)を行った=何の意図もない、という考え方があることも存じておりますが、私は実務家を生業とする一読者として「遺書」を読んだストレートな解釈を述べさせていただいた次第です。

第2の削除と第4の削除、この相矛盾するパラグラフの削除によって違和感が構成されていました。

そして第3の遺書である「所感」(後述)を読むことで、第3の削除が極めて重大なミスリードであることに気がつきます。

喩えるなら「ベートーベン交響曲第九番(第九)において、第四楽章の声楽の第一声が『おお、そのようなしらべではなく・・・』であり、これまで奏でてきた第一楽章から第三楽章までを全て否定し決別する」といった感じでしょうか、きれいに言い過ぎか?(脱線すると、ワーグナーは第四楽章の荒々しい冒頭部分を「恐怖のファンファーレ」と呼んだそうです)。
◆肉体の死と精神の死

肉体の死とは、実際に特別攻撃を敢行して迎える生命の死です。

しかしながら、生命の死を迎える瞬間まで、精神は「生きたい」と「死ななければならない」という真逆の気持ちを揺れ動き、徐々に精神が冒されていきます。
「遺書」にあるように、「死生観がないから死ぬのは怖くない」と言っていた人が「お前らも遅かれ早かれ死ぬんだ!」と言い放つ論理矛盾、その論理矛盾を思慮深き若者に起こさせる「精神に対する拷問」、このことに対し「精神の生木を裂く」という表現を使いました。

特攻平和会館の展示物にも多く見られますが、軍国主義の申し子のように「国に忠孝」という文意の表現が多いことは事実ですが、一方で後世の我々は、こうした自由表現に対する検閲があったことを斟酌する必要があります。
学徒兵に限らず死にゆく兵士の最後の言葉が「○○陛下万歳」ではなく、奥さんや子供の名前、そして「お母さん」だったことは生還した日本兵の多くが語り継ぐ事実です。

人に論理矛盾を強いる戦争とは・・・
現代に生きて平和を享受する我々は、あらためて先人の経験から学び取り、かつ受けた「精神に対する拷問」を汲み取る義務があるのではないか・・・と思料します。
◆外国人が感じる日本の精神世界

世界には「親日」と呼ばれる国家があり、有名どころでは旧ペルシャ帝国のイラン、旧オスマントルコ帝国のトルコでしょうか。

トルコとの関係については、明治時代の海難事故「エルトゥールル号遭難事件」の逸話や、イラン・イラク戦争勃発時にトルコ航空による「日本人の日本移送」の美談が語り次がれており、こうした逸話はトルコ本国でも広く知られています。

この2つの歴史的大国の共通点は「反米の急先鋒」であり「誇り高き大帝国の末裔」であることです。
世界的に「米国の最大の同盟国」と認知されている日本とは、まかり間違っても親密という感じになり得ないと考えますが、実際は「極めて親日」なのです、なぜなのでしょう?

これは世界一般に認識されていることですが、「核攻撃を2回も受けて国土が焦土と化し、沖縄や本土において非戦闘員があれだけ殺されたにもかかわらず、世界に冠たる経済大国への復興を果たした日本」が「当該核攻撃を実施し凄惨な戦いを繰り広げたかつての敵国である米国と強固な同盟関係を築いた」ことへの畏敬が存在します。

そんなの世界史的にありえませんから。
面白おかしく「アメリカの日本への3S政策(※)」なんて荒唐無稽な話もあります、まあSFです。

(※)3S政策
大衆にScreen:スクリーン、Sport:スポーツ、Sex:セックスの娯楽を与え、政治への関心を希薄化させる政策と言われる。


第2回で少し触れましたが、特定の宗教を持たない日本人は非常に高い公衆道徳や規律を発揮します。

先日の松山英機選手のマスターズ優勝において、彼の後輩でキャディーである早藤将太氏がオーガスタ18番ホールのグリーンに一礼したことが日本的行動と賞賛されましたが、こうした一連の話はおそらく無関係ではありません。

日本にとっては当たり前なのですが、宗教は持たずとも生活習慣に「八百万(やおよろず)の神」が存在し「万物全てに感謝する」という理念が考え方の底流にある訳ですが、キリスト教徒やムスリムはこうした道徳的理念は宗教がもたらすと考えているため、彼らには非常に奇異に見えるのだと思料します。

敬虔なムスリムはシーア派とスンニ派が歴史的にも現在においても血みどろの戦いを繰り広げている現状を憂い、「日本こそがイスラム的」と映るそうです。
そして「日本人の若者が自己犠牲を前提とした特別攻撃を組織的に行った」という事実は広く世界に認知されており、その事実に対して「畏れ=恐怖」の感覚を持たれていると思料します。


翻って現代の我々ですが、当時のアメリカ海軍にとって自殺でしかない特別攻撃は「クレイジー」以外の何物でもありませんが、戦艦ミズーリへの特別攻撃や正規空母バンカーヒルを大破させて多くの仲間である海軍軍人を死傷させた特別攻撃のパイロットを、アメリカ海軍軍人が憎しみによってではなく水葬礼で「名誉をもって弔った」事実をどれほどの日本人が認識しているのでしょうか?
※戦艦ミズーリ記念館によれば、アメリカ海軍軍人は手作業で旭日旗を作り、パイロットの遺骸を包んで水葬礼を行ったとのことです。 教科書に書いていない?学校で教えてくれない?試験に出ない?自ら調べろって。

特別攻撃に対する認識や見識一つとっても、海外では礼賛するという話ではなく事実と意味が認識されているにも関わらず、当の現代に活きる日本人が認識していないという恥ずかしさ。
今の若い世代の中にはアメリカと戦争したことも知らず、「カミカゼ(非常に嫌悪感を持つ言葉です)はやんちゃな特攻服のデザイン」ぐらいの認識しかねえんじゃねーのか?という苛立ちを禁じ得ません。

私もそんなに多くのイランやトルコの方と触れあった訳ではありませんが、ムスリム規律が極めて高く気高くそして気性が荒いイランが日本の国際的立場(米国の最大の同盟国)を高く尊重する理由や、皇室がトルコに対して皇室外交を行った際のトルコの方々の熱狂的な歓迎ぶりを見ると、この2つの大国の国民が前述のような日本の価値観や考え方=精神世界に対して畏敬を持ち、そして特別攻撃が精神世界の一部を構成している、だから日本は中東に舐められない(外見上、中東の男性には「髭を生やさない日本の男性」は子供に見えるので馬鹿にされやすい)ではないかと思料します。

当然ですが、非戦論者として戦争活動全てを、そして「死ぬことを前提とする」特別攻撃を完全に否定します。
しかしながら意に反して特別攻撃に向かわれた方々の精神の死=精神の生木を裂かれたことに対し、その無念と悔しさや感謝の気持ちといった様々な感情に万感の思いを込め、心情に寄り添います。

心情に寄り添うことは、後世に生きる我々に出来る「戦争で命を落とした全人類に対する最大かつ唯一の供養」であると思料します。
◆歴史観とは?

ここで、歴史観について補足します。

今、世界中で軍事衝突やテロ行為、そして軍事抑圧が絶えません。
日本にいると有事はコロナ禍程度で済んでしまいますが、世界に目を向けると戦争により理不尽に命を落とす人がなんと多いことか。

しかしながら日本のマスコミは積極的に報道しません。
アゼルバイジャンとアルメニア、クリミア半島、シリア・クルド人居住地域、ミャンマー、パレスチナ・・・等々。

報道しない理由の一つに、日本人が平和ぼけした遠因である「戦後の日本が積極的な近代史の教育を行ってこなかった経緯にある」と思料します。
番組の制作側に問題意識がないことと、受け手側にも刹那的で安易な効果を評価する風潮があるから、受け手側の劣化もあると思料します。
テレビで毎晩アホな番組を垂れ流すぐらいなら、スポンサーも他に生きた広告宣伝費を使うか、電波法に基づいて放送局の権利を剥奪すればいい、と考えるのは私だけでしょうか?

そして、これは今の現役世代の歴史観の脆弱性から思料することは、物事を重畳的・多元的に見る訓練が圧倒的に足りていないということです。
実際、このことは今般のコロナ禍対応にも見ることができます。

たとえば防疫(水際対策が分かりやすい?)について、幕末の開港で経験したコレラ流行や、日露戦争からの帰還兵に鉄壁の防疫対応を施すなど国家として経験済みであるにも関わらず、この体たらくです(ここでは詳しく言いません)。
まさに劣化したとしか言い様がない。

我々個人が独自の歴史観を磨くことは、実は経営や組織論の観点から非常に重要です。
第3回のコラムの「有事の拙速」は歴史観の話でした。
◆ミッドウェー海戦の逸話に見る失敗の本質

冒頭でミッドウェー海戦と書きましたし、2019年にはアメリカで映画が作られ、巷で取り上げられる機会が増えていますので、ここで簡単にまとめておきます。

ミッドウェー海戦に先立ち、図上演習が連合艦隊旗艦戦艦大和で開催された時、アメリカ海軍空母部隊からの攻撃により連合艦隊の正規空母を喪失する演習判定が出されたことに対して、受ける損害を小さくするように判定が操作され(9発命中が3発命中に、二艦喪失が一艦喪失に、挙げ句のはてに沈んだはずの空母「加賀」が後の作戦に従軍・・・ゾンビか?)図上演習を続けた事実があります。

この先例は、第3回の「有事の拙速」で示した「状況や条件の変化を前提とした対応」を否定し、自らの想定シナリオ「のみ」を採択するものであり、不測の状況変化に対して極めて脆弱になります。
同じ日本帝国海軍の意思決定機関でも、連合艦隊はアメリカ海軍空母部隊の誘い出しと撃滅を、軍令部はミッドウェー島攻略を作戦の目的としましたが、連合艦隊が軍令部の顔を立てて実施部隊に「空母撃滅」の明確な指示を出しませんでした。
実際、前述図上演習の結論は「アメリカ海軍空母の出撃はミッドウェー作戦以降」と筋書きが都合よく書き換えられています。

この結果、ミッドウェー海戦では作戦方針(空母撃滅?、島攻略?)が不明確になり、各場面における意志決定が後手後手になりました。
これは人災以外の何ものでもありませんが、底流には連合艦隊が「連戦連勝で驕り高ぶり、アメリカ海軍を舐めきっていた」ことにあります。
「必ず勝つ戦だから」と勲章欲しさに多くの艦艇部隊が作戦に「我先に」と従軍したことはあまり知られていない事実です。
明確な役目がない鈍足な旧式戦艦(山城・扶桑)の従軍に、山本五十六氏は「情(=勝つ戦、勲章がもらえるから)」と言ったそうですが、「情とは何事か?」と思いませんか?

更には、何より決定的だったのは日本帝国海軍の暗号電文が解読されていたことであり、この逸話は有名ですのでご存じの方も多いかと。

日本帝国海軍が太平洋方面で新たな大規模作戦を企図している想定の下、アメリカ海軍側は攻撃される目標や地域を検討して絞り込んでいる中で、昭和17年4月頃(ミッドウェー海戦は6月)からAOとAFという符号が暗号電文に頻繁に出現していることに気づき、文脈からAOが「アリューシャン(列島)」を示すことが判明しましたがAFが判明しません。

そこで機転を利かせた青年将校が無線を使わずに(当時、オアフ島とミッドウェー島との間には海底ケーブルが敷設されていた!すごいですよね)ミッドウェー基地から「海水ろ過装置が故障して飲料水が不足」(ミッドウェー島は珊瑚礁から出来た島なので井戸が無い)と平文の電文を打たせて日本側に傍受させたところ、絶海の孤島であるウェーク島の日本軍の守備隊(諸説あり)から「AFは真水不足、攻撃計画はこれを考慮すべし」という暗号電文が発せられたのを傍受し、AFがミッドウェー島であると判明したという経緯があります(地理的に、ウェーク島-ミッドウェー島-オアフ島がほぼ等間隔です)。
馬鹿丸出しですね。

ミッドウェー島は「絶海の孤島」ですので特に戦略的価値を認めませんし、兵站や地理的位置および距離から考えて、取ってもいずれは取り返されます。
第二航空戦隊の猛将山口多聞少将は、アメリカ海軍正規空母2艦(ヨークタウン型正規空母2番艦エンタープライズと3番艦ホーネット)が島周辺に布陣して待ち構えている前提で索敵に集中すべきと進言しましたが、前述のように作戦目的が不明確な連合艦隊首脳には聞き入られず、島攻撃なのか索敵で発見した艦隊攻撃なのかの後手後手の混乱の中、山口多聞少将が指揮を執る正規空母飛龍以外の正規空母3艦が空母艦載機(ドーントレス)の急降下爆撃によりほぼ一瞬にして戦闘不能に陥りました。

実は、ミッドウェー海戦の前哨戦であり海戦史上初の「空母対空母」の戦いとなった珊瑚海海戦において、連合艦隊・第五航空戦隊側が大破させ3ヶ月は戦線に復帰出来ないと判断したヨークタウン型正規空母1番艦ヨークタウンがパールハーバー軍港における24時間突貫修理により水密性に難を残しながらも2日で戦線に復帰を果たし、ミッドウェー海戦に「3番目の正規空母」として従軍しておりました。
これは連合艦隊が想像しえない状況の変化でした。
「4艦対2艦」が「4艦対3艦」になった意味は大きく、実際大きかったのです。

大本営はミッドウェー海戦の大敗を国民に隠蔽し、連合艦隊で正規空母4艦喪失の責任を取った者は各正規空母の艦長と山口多聞少将といった「艦と運命を共にした」者や命令に従い戦死喪失した歴戦のパイロットのみであり、事後検証もろくにせず、責任の所在を曖昧にして、更には情報管理の目的から生き残った空母艦載機のパイロット達を軟禁するという暴挙さえ行いました(最上型重巡洋艦2番艦三隈の喪失もあります)。

後世における連合艦隊司令長官・山本五十六の評価について、奇跡の真珠湾攻撃を立案し成功に導いた軍人であり、更には最後まで対米開戦に否定的であった秀逸な客観視と外交センス、その他の豊富実績に加えその人柄が古今東西の多くの日本人に広く愛されていますが、少なくともこのミッドウェー海戦を巡る各行動について見ると「愚将である」と思料します。

山本五十六氏について、長岡出身の有名人でありビジネス格言(※)が有名ですね。
ですが、ミッドウェー海戦に至る道筋では、とても同じ人とは呼べない程ひどい有様です。

(※補足)山本五十六氏の有名な格言
やってみせ、言って聞かせてさせてみせ、誉めてやらねば人は動かじ。
話し合い耳を傾け承認し、任せてやらねば人は育たず。
やっている姿を感謝で見守って、信頼せねば人は実らず。

歴史家の保坂正康氏は、アメリカ海軍が山本五十六氏をブーゲンビル島上空で待ち伏せて撃墜した作戦に関し、アメリカ太平洋艦隊司令長官・チェスターニミッツが「山本の後に有能な後継者が出てきては困る」という懸念を出したのに対し、「山口多聞という有能な人物いたが、ミッドウェー海戦で既に戦死しているので問題ない」という意見を受け、ニミッツが作戦を裁可したという逸話を述べておられます。
皮肉なものですね。

このように、変化を想定し状況に対して用意周到に向き合わない、もしくは状況変化を受け入れ謙虚にならない(判定操作を行う)ことは回り回って実は自分の首を絞めることになる、という格好の事例です。

第3回のコラムでも触れたように、歴史は単なる「知識をため込む学科」ではなく、確認した事実を元に「なぜこのようなことが起きたのか?」という失敗の本質の考察を重ねるために科目と思料します。
このことを「歴史観を磨く」と呼び、我々の方法論=武器になるものです。
◆上原良司氏の第3の遺書「所感」を解釈する

ここで、ようやく「所感」を読む下準備が整いました。
「所感」は「遺書」と同様に有名な文章であり、出撃前夜にしたためられ、そしてなぜか検閲を免れて後世に残ることになります。

以下に「所感」の原文を掲示し、私なりの解釈を加えます。
これまでも述べましたが、「遺書」は上原良司氏の「第2の遺書」と呼ばれ、「所感」は「第3の遺書」と呼ばれる文章です。
※「第1の遺書」は悲しいラブレターなので触れません、興味がある方は調べて下さい。

彼の特別攻撃出撃は昭和20年5月11日ですから、「所感」は前日10日夜に書かれたことが通説です。
5月11日に敢行された全特別攻撃によりアメリカ海軍艦艇が受けた被害は甚大(前述の正規空母バンカーヒルを大破させた特別攻撃を含む、3艦合計で死傷者877人)となり、特別攻撃史上で最も「戦果を挙げた日(極めて胸くそ悪い表現)」でもあります。

泣きながら読んで下さい。


所感

栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊とも謂ふべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ身の光栄これに過ぐるものなしと痛感致して居ります。

思えば長き学生時代を通じて得た信念とも申すべき理論万能の道理から考へた場合これは或は自由主義者と謂われるかも知れませんが自由の勝利は明白な事だと思ひます。
人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく例へそれが抑へられて居る如く見えても、底に於ては常に闘いつつ、最後には必ず勝つと云ふ事は、彼のイタリアのクローチェも云って居る如く真理であると思ひます。
権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であらうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。
我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家に於て見る事が出来ると思ひます。
ファシズムのイタリアは如何ナチズムのドイツ亦、既に敗れ、今や権力主義国家は、土台石の壊れた建築物の如く、次から次へと滅亡しつつあります。
真理の普遍さは今、現実に依って証明されつつ過去に於て歴史が示した如く未来永久に自由の偉大さを証明して行くと思はれます。
自己の信念の正しかった事この事は或は祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。
現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思ふ次第です。
既に思想に依って、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。

愛する祖国日本をして嘗ての大英帝国の如き大帝国たらしめんとする私の野望は遂に空しくなりました。
真に日本を愛する者をして立たしめたなら日本は現在のごとき状態には或は追ひ込まれなかったと思ひます。
世界何処に於ても肩で風を切って歩く日本人これが私の夢見た理想でした。

空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が云った事は確かです操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなく勿論理性もなく、只敵の航空母艦に向って吸ひつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。
理性を以て考えたなら実に考へられぬ事で強ひて考ふれば彼等が云ふ如く自殺者とでも云ひませうか、精神の国、日本に於てのみ見られる事だと思ひます。
一器械である吾人は何も云う権利もありませんが唯、願はくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願ひするのみです。

こんな精神状態で征ったら勿論死んでも何にもならないかも知れません。
故に最初に述べた如く、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思って居る次第です。

飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、一旦下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。
愛する恋人に死なれた時自分も一緒に精神的には死んで居りました。
天国に待ちある人、天国に於て彼女と会へると思ふと死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
明日は出撃です。
過激に亘り、勿論発表すべき事ではありませんでしたが、偽はらぬ心境は以上述べた如くです。
何も系統だてず、思った儘を雑然と並べた事を許して下さい。
明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。
彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。


云いたい事を云いたいだけ云いました 無礼を御許し下さい。
ではこの辺で

出撃の前夜記す



『きけ わだつみのこえ』第一集(新版):岩波文庫

注:「全体主義」は「きけわだつみのこえ」では削除され、改訂版では原文表現が記載された。

これ、(当然ですがワープロで書いた文章ではなく)一気の書き下し文ですよ?
上原良司氏の文章力に嫉妬します!
驚嘆しかない!

「所感」を貫くテーマは「自由主義への恋慕」です。

上原良司氏の自由主義とは、これまでも述べましたが帝国主義の文脈で語られております。
しかしながら当時の情報統制下にて、日本軍部首脳すら知り得なかった連合国軍側の「大人の事情」、即ち1945年2月のヤルタ会談や同年8月のポツダム会談における「後の東西冷戦につながる覇権主義に基づく戦後処理および戦後体制の駆け引き」を一個人の上原良司氏が知る由もなく、彼が自由主義=帝国主義と見なしても仕方ありません。

これは「解釈が違う」という観点やレベルの話ではなく、「帝国主義にかぶれた」という解釈は、当時を生きていない後世の臨場感のない人間のステレオタイプ的意見に過ぎません。
この観点および解釈は、第2の遺書「遺書の3番目の校正(削除)理由」と合わせて考察して下さい。

上原良司氏が言う自由主義の真意は、以下の2カ所に雄弁に表現され、明確に覇権主義たる帝国主義ではないことを示しております。
  • ・『世界何処に於ても肩で風を切って歩く日本人これが私の夢見た理想でした。
  • ・『明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。
    彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
上原良司氏が自由主義に込める真意とは、人間性が抑圧された軍事態勢下ではなく「平和時に世界を闊歩し飛翔する日本人」に恋慕する若者の姿です。
いよいよ明日の出撃により「自由主義者になること=自らが世界を闊歩する日本人になること」の夢が潰(つい)えることが確定し、「自由主義者は静かにこの世から去って行く」と、これまた静かに語るのです。

もう一点、次の文を強調しておきます。
  • ・『一器械である吾人は何も云う権利もありませんが唯、願はくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願ひするのみです。
自らの夢は潰えた、しかしながらこのような馬鹿げた特別攻撃を命じる国家体制は早暁に滅び、戦争は敗戦で終結するだろう。
後世の日本人へ、私の夢を実現して欲しい。
自分の分も含めて「肩で風を切って世界を闊歩して」もらいたい。
それが個人および国家としての真の意味での勝利だから。

・・・第2の遺書「遺書」の4番目の校正(削除)であった「早いか晩いかの差」とは雲泥の差ではないですか?
昭和20年4月から5月のわずか一ヶ月の間で、生木は裂かれつつも、自らの信念における「一つの結晶を得た」上原良司氏の精神世界における勝利を見いださずにはいられません。

そうです、彼は勝ったのです。

上原良司氏はイタリアの哲学者であるベネデット・クローチェに特別な思いを寄せており、「第1の遺書」は歴史家である羽仁五郎氏の著述『クロォチェ』に「ある手法で」記載されています。

上原良司氏がクローチェを支持する理由は、クローチェがイタリアにおいて台頭したファシズム(ムッソリーニ政権)を一旦は支持するものの、1925年以降から反ファシズム・反ムッソリーニ政権の立場をとり続けたことにあると思料します。
即ち、日本の軍事政権とは独裁国家に他ならず、枢軸国=独裁国家であるドイツ(ナチス)・イタリア(ムッソリーニ)・日本(陸海軍)と、連合国における民主主義国家であるアメリカ・イギリス(旧ロシアや旧中華民国などの共産主義国家は馴染まない)との対立軸を念頭の置き、民主主義体制に恋慕している、ということになります。


平和への想いを込めて、
「世界何処に於ても肩で風を切って歩く日本人」
を目指して。


今回はこの辺で。