第9回 |コラム澤口 「温故知新に学ぶ」           

一般社団法人 日本事業戦略総合研究所(co-founder)、理事の澤口です。
全12回シリーズで、個人的に興味深かったことについて、自由気ままに書き綴って参りますので、お時間がある方はお付き合い下さい。


今回の第9回のお題は「温故知新に学ぶ」です。
第4回コラムの「働き方改革を考える」において、欧米型資本主義vs日本型資本主義の対比の中で「デジタル的アナログ的」という表現を用いました。
この文脈のデジタル的とは「白黒が明確である」という意で用いました。
物事がスッキリ・ハッキリしていることは確かに大切ですが、全てにおいて「デジタル的=明瞭である」ことが必ずしも最良ではないことを我々は本能的に知っております。

私がアナログとデジタルを明確に意識したのは、オーディオにおけるレコードからCD(Compact Disc)への変遷でした。
ご存じの方が多いと存じますが、CDの規格はドイツのフィリップス社が規格のプロトタイプをソニー社に提示して共同開発を開始した1979年における当時の記憶容量の技術的上限に影響されました。
即ち「人間が聞き取れない50Hz以下の周波数帯と20kHz以上の周波数帯を削除した音源ソースをデジタルサンプリングした」ことがCDの規格になった事実は広く知られております。

現在、その「失われた周波数帯」をカバーした音源ソースがハイレゾ(High Resolution)として普及しています。
CDの再生音とハイレゾの再生音は、可聴周波数帯が人間よりも高周波サイドに広い「犬」には全く異なって聞こえているということですが、我々が普通に聞けばその違いは全く分かりません。
人間の耳が聞き取ることが出来ない周波数帯を「音源ソースから除外する」という当時の技術陣の判断は、技術的制約に照らして妥当であったと思料します。

一方で聴力に頼らない感性、たとえば骨振動などで「50Hz以下の低周波や20kHz超の高周波」を感じ取ることがあり得るかも知れません。
それは終わりのないオーディオ論の「深淵な迷いの森で遭難する」ことを意味しますのでここでは触れません。

そもそもサンプリングとは、連続データをサンプリング周波数の「波長単位」で離散データとして記録するので、正確にはオリジナルソース(連続データ)は失われていますが、その喪失を人間は感性で感じ取ることが出来ないためデジタル処理後の利便性が勝り「デジタル処理」が普及しているということです。

今日のデジタル時代において、レコードや真空管アンプのように「アナログの中に温かみという価値を見いだす人達」がいます。
レコードは針が溝の凹凸をコイルの誘導起電力としてピックアップすることで音源ソースを再現する機構ですが、コイル(インダクタンス)を経由した段階で波形歪みが生じており原音忠実(録音された元の音源に忠実か?、という意)に限界がありますし、真空管は半導体に比べてスイッチングが遅く特性として波形が歪みます。

今の若者世代は生まれた時からデジタルソースに囲まれていますから、温故知新よろしく「球の火」も(目)新らしく温かみを感じるようで、真空管アンプの作製キットが密かなブームになっています。
デジタルソースを真空管アンプで再生って、インテリア性は除いてもその発想が面白いですね。




件のコロナ禍の影響から、世の中の潮流や我々の日常行動の隅々に至るまで効率性を重視する雰囲気が強くなっている印象を持っております。

一例を挙げるとコロナ禍で急速に普及し今や当たり前となったZoomやGoogle Meet等のリモートでのコミュニケーションです。
遠隔地間でも手軽に打ち合わせが出来るので非常に便利で助かっております。
10年程前までは音声のみのスピーカーフォンで電話会議をしていたのですから隔世の感を禁じ得ません。

更には、昔のテレビ会議は部屋丸ごとの大がかりなシステムでしたが、今は普通のPCですんじゃいます。
ハードとソフトの進化がコストを破壊的に下げた一例であり、一つの物作り分野が衰退した一例でもあります。

一方で、リモート・ミーティングのヘビーユーザーである私の長年の友人は
「リモートでのコミュニケーション能力は、肌感覚で面談のそれの50%以下程度」
「要は参加者の意識と密接に関係する」
と断言しておられています、それはなぜなのでしょう。

一般論として利便性や効率性の向上が素晴らしいことに疑いの余地はありません。
ただ、そうした利便性や効率性の追求が表層的なものであった場合には必然的に「実=中身」が弱められ、結果として「利便性や効率性が適用される目的対象事項の密度の問題」になりかねないからと思料します。

友人の言葉を借りれば、お互いが旧知であり想像力をもって相手のニュアンスや言いたいことが補完できるならばリモート・コミュニケーションは問題なく機能するし、リモートへの参加者の意識や姿勢が高ければ旧知でなくとも補完を働かせるため経験上問題ないそうです。
行間や語感のニュアンスが失われることを意識した上でリモート・コミュニケーションを「割り切って使う」となるでしょう。

アナログ・デジタル論争を考える上で、アナログ的な・・・という表現の不文律は「人が主役」、そしてそれはどのように社会が進化しても変わらないものであり、それこそ縄文時代からも変わらない「人本来の原風景」と呼ぶべきものではないか?と感じております。

まさに温故知新です。

我々のビジネス実務においても急速に普及しつつある「機械学習の評価値重視」やら「ブラックボックス上等」といった価値観、即ち「人の判断は曖昧なので人はいらない」という人排除の風潮や雰囲気を感じております。
利便性・効率性と真贋をはき違えていないか・・・と、「デジタル最高、アナログ廃れる存在」とでもいいましょうか?
「10年後になくなる職業」といったショッキングな見出しで煽るアレです。
昨今のDX狂騒曲やら「日本はデジタル敗戦国」やら、挙げ句の果てには反デジタルの文脈でアナログは因習的な古い価値観という対立軸が設定されており、挙げ句「ハンコも古いダメな語感」といった感じで、アナログ的とは関係ないことすら十把一絡げのアナログ扱いにする惨状です・・・。

こんな風につれづれに考えていると、アナログの温故知新について考察する上で、江戸時代から現在までにつながる「教育制度改革」の話が非常にマッチしており、そして参考になることに気がつきました。


今回のコラムは、前述した「人本来の原風景」を探るべく、主に教育改革の変遷をアナログ・デジタルの観点から考察して我々実務世界のヒントを探ります。

更に、藤井聡太棋士の快進撃に沸く棋士の世界、昨今の小学校の教育現場において現在進行しているアクティブ・ラーニングや、今年のノーベル物理学賞受賞者の「あの発言」について、原風景の観点から触れたいと思います。

今回もお付き合いただけると幸いです。
◆江戸時代の寺子屋の意義

日本では「小学校では算数」「中学校以上では数学」と呼称します。
その他の科目では小学校とそれ以上でも呼称は変化しませんので独特の雰囲気があります。
世界中の主な国家においても「算数・数学」と呼称が異なる国家を私は知りません。
それには日本独自の事情があるような気がしてなりません。
この話題は文部科学省のHPにも記載がありますが、個人的にしっくりきません(興味がある方はご覧下さい)。

以前に、人生の先輩から「算数と数学の違いをどう思う?」と聞かれ、以下のように答えたことを記憶しています。

算数とは、
  • ● 個別事象を四則演算と比で解き明かす学問である。
  • ● 小学生は比を武器として戦う。
一方の数学は、
  • ● 関数と一定条件下の方程式を武器として、個別事象というよりはむしろ一般事象を、ある時は帰納的(※)に、またある時は演繹的(えんえき)(※)に数式で記述して解き明かす学問である。
要は、個別事象と一般事象の視点の違いが肝というのが私の見解です。

(※)補足:帰納的・演繹的

帰納的:幾つかの具体的事実から傾向を抽出し、当該傾向に基づいた推論により一般結論を得る。
→要は、昨今流行の機械学習が該当します。

演繹的:普遍的な一般論に基づいた推論により結論を得る。

江戸時代における日本人の識字率の高さは当時の世界トップでしたが、その底支えとなっていた寺子屋教育の運用実態をご存じの方は少ないと存じます。
寺子屋と言えば「読み・書き・そろばん」ですが、その実体は「生徒ひとり一人に実学の基礎を教える場」であり、(後述しますが)今日の我々が想定する学校のスタイルではありません。

江戸時代は士農工商という職業に基づく強烈な身分制度がある社会でしたので、「商人の子は商人」「職人の子は職人」という風に職業選択の自由が一般的に許されていない社会でした。
更には、婚姻や人生設計さえも社会通念や慣習によって左右される時代です。
商人の子が実家や丁稚で他家の奉公に上がる前、つまり今風に言うと職業のOJT(=On the Job Training)に移行する前に、職業実務に関する常識や専門用語に予め慣れるため、実際の取引事例(やりとり)や実際に交わされた手紙や伝票等をまとめた冊子を「教科書」として子供個人単位に与え、寺子屋の先生が個人単位で教えていました。
この子は油屋の小せがれ、この子は大工の息子、この子は魚屋の娘・・・といった具合に教科書も内容も異なっております。
そして生徒は性別や年齢がゴッチャです。

このように寺子屋の個人指導とは現在の我々が思う個人授業とは異なり、「実学に基づいたカリキュラムを、全く異なるバックグラウンド(=職業や進む道)を持つ子供達を集合させて個別に指導した」という風に説明出来ます。

寺子屋に基礎教育という言葉が馴染まないことを承知の上で言いますが、年端もいかない子供達に対する職業訓練の中に「算術や国語や道徳等が融合した基礎教育の内容」が含まれており、中でも各職業において算術=そろばん(四則演算)が重要な地位を占めていたことと、先の「小学校は算数」とが無関係とは思えません。
真偽の程は歴史家にお任せしますが、大体合っていると思料します。

そして、この寺子屋の運営は、学生の能動的な授業参加を目的とするアクティブ・ラーニング(後述)の永遠の課題である「学生ごとに理解度・履修度が異なる=必然的に個別指導に向かう」を克服したことを意味します。
確かに個別指導に焦点を当てると効率性に真っ向から反しておりますが、逆に「反しているのが当たり前だからこそ自然に課題を克服していた」と言えるのでしょう。
◆日本の教育制度の変遷①:学制の導入~没個人の時代~

時代は変わり幕藩体制が終焉を迎え明治時代となり日本が中央集権国家として歩み始める中で学制が導入され、子供達は「標準化された教育」を受けるようになりました。
先般の寺子屋での個人単位の実学や職業訓練ではなく、今の学校教育に近いカリキュラムの原型が出来たことになります。

そして現在では深く意識されませんが「学制と徴兵制はセット」であり、当時の国策であった富国強兵を実現するに近代軍隊の育成が必要であり、その近代軍隊のために命令一下整然と行動する「忠実な軍人」を大規模に育成することが急務でした。

それまでの武士団とは異なり、徹底的な階級制と個人技を必要としない無私・機械的な調練です。
喩え相手が民間人であっても「撃て!」と上官から命令されれば撃つのが古今東西の優秀な軍人ですから。

こうなると学制の下の基礎教育において必然的に子供達の個性育成のエッセンスが邪魔になります。
国家が定めた標準化された教育カリキュラムが画一的に全国に普及することになりますが、専門家はこれを系統主義と呼ぶそうです。
確かに、江戸時代以前は身分制度ガチガチの自由度が希薄な時代であり、誰しもが教育を受ける権利があるということは、それがたとえ画一的な内容であったとしても意義深く重要なことです。

でも・・・
実際に当時の尋常小学校の教科書を見ると、まあ何と言うか、全くもって面白くありません。
誤解の無いように、高等教育以上では外国人教師、たとえば後の小泉八雲であるラフカディオ・ハーン氏のような方も多数存在し、独自の教育スタイルを展開して学生達の人気を博していたケースがあります。
少なくとも尋常小学校レベルの初等教育の教科書は内容がペラペラです(あくまで私見です)。

ここまで来ると、寺子屋の自由度や現場の多様性がアナログ的に見え、明治新政府が導入した学制がデジタル的に感じられます。
教育の主語と目的、即ち「この子が一生食えるようにする」と言うのか、「政府に忠実な人間を作り上げる」というのかで主語と目的が全く異なるので、そうした印象を醸し出すと思料します。

教える立場から見れば、寺子屋の方が個別指導であるために相当な労力が求められることは想像に難くなく、学制の方と言うと画一的に効率性を追い求めることが出来ますから、更にそういう印象を増幅して感じると思料します。
◆日本の教育制度の変遷②:大正デモクラシーにおける教育

明治時代も後期となり大正時代を迎えると、都市部に居住する若者は現在の我々と同じように自由を尊重し、自身のライフスタイルと価値観を持って生きていました。
いわゆる大正デモクラシーの時代が到来します。
結婚も親が決めた見合いから自由恋愛へ、サラリーマンの中産階級は可処分所得があり、我が子には明治時代から続く画一的な教育ではない独自教育を与えたいと願う親が増えていきます。

あれ?現在と瓜二つのような・・・。

こうした機運の高まりや需要側のニーズを受けて、独自観点の教育に舵を切る教育者が現れるようになります。

一番著名なのは、歌人の与謝野晶子が創設に参画した文化学院でしょうか。
服装は「自己表現の手段」として自由、先生(という名の講師)は当代随一の文化人が名前を連ね、「国の学校令に縛られない独創的な学校」という理念を掲げ、当時の中産階級の師弟に非常に人気の高い学校でした(もっとも、学費もそれなりだったようですが・・)。

なかなかぶっ飛んだ学校でして、あの与謝野晶子が子供に出した俳句や詩の宿題に「本気で赤ペンを加えている」など、ある意味素晴らしい授業を展開していました。
世の東西を問わず文化人とは「我が儘の塊」ですから、生徒側が先生達文化人に忖度する必要も多分にあり、これこそ自主性を尊ぶアクティブ・ラーニングの一形態であったと思料します。

その他、全国的にも意欲的な教師が独自教材を使い、「身近なテーマから物理・化学法則を理解させる」なんて魅力的かつ素晴らしい授業があったそうです。

こうした自由な雰囲気は現代人にも分かりやすいです。
こうした一連の流れを専門家は経験主義と言ったりします。

しかしながら、(大体想像が付くと思いますが)昭和に入り軍国主義社会に急速に傾倒する中で、文化学院は「自由思想の象徴」と目され「○皇に対する不敬罪」により閉鎖に追い込まれます。

大正デモクラシーで開花した教育現場の多様化改革は、現在議論されるアクティブ・ラーニングにつながる大きな社会実験であったことは確かです。

アナログ的・デジタル的の対局で表現すれば、明治以降の教育制度の学制においてデジタル的な味付けが施され、大正時代の「時代の要請」により文化的多様化がアナログ的にもてはやされますが、軍国社会の画一化の中では文化的多様性が生き残れなかったという悲劇です。
◆戦後の教育改革~米国からの輸入~

戦後、日本は大きな社会変革を迫られますが、教育制度も例外ではありませんでした。
連合軍総司令部(GHQ)は昭和20年に日本政府に対して四大教育指令(※)と呼ばれる命令を矢継ぎ早に発布します。

(※)補足:四大教育指令(文部科学省HPより抜粋引用)

第1指令:
日本教育制度ニ対スル管理政策
教育内容、教職員、および教科目・教材の検討・改訂についての包括的な指示と、文部省に総司令部(GHQ)との連絡機関の設置と報告義務とを課したもの。
→要は、GHQを批判し反抗する者を教育界から排除するということ。
第2指令:
教員及教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件
軍国主義的、極端な国家主義思想を持つ者の教職からの排除について具体的に指示したもので、これによりいわゆる「教職追放」が施行された。
→要は、公職追放の一環、GHQの視点で日本の民主化に弊害となる思想人を追放したということ。
第3指令:
国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督ならびに弘布ノ廃止ニ関スル件
信教の自由の確保と、極端な国家主義と軍国主義の思想的基盤をなしたとされる国家神道の解体により、国家と宗教との分離と宗教の政治的目的による利用の禁止という原則を実現させようとした。
→要は、GHQが日本の歴史や伝統の正統性の教育を許さなかったということ。
第4指令:
修身、日本歴史および地理停止ニ関スル件
軍国主義的及び極端な国家主義的思想の排除を教育内容において徹底しようとするもので、修身・日本歴史・地理の授業停止とそれらの教科書・教師用参考書の回収とを命じたもの。
→要は、戦争の一つの結論である「欧州諸国が植民地としていたアジア諸国が解放される(大東亜共栄圏形成)までの経緯」と「対欧米に対する敵性思想を日本人に教育しない」ということ。
そして、翌年の昭和21年にアメリカ教育使節団が来日、この使節団の報告書が戦後の教育改革の柱となり、現在の形である「6・3・3(小学校6年、中学3年、高校3年)」の単線型の学校教育制度が導入されます。

これはあまり知られていませんが、戦前の日本の教育では、旧制中学(5年制)から医学専門学校に進学できたり、尋常小学校から「農学校・農林学校」「工業学校」「商業学校・実業学校」「商工学校」といった実業学校に進学できたりと、複線型の学校教育制度でした。

これは専門家によって意見が分かれるところですが、単線型において入学時の平等は保障されているので個人尊重の考え方のように見えますが、カリキュラムが進む上で個人生徒間の濃淡が広がり格差が生じます。
この格差に対して機械的対応=反個別対応で対処したことが現在の偏差値偏重の温床になったのではないか?という考え方があります。

私は教育専門家ではありませんが、確かに「飛び級」や「一芸に秀でた才能の発掘」といった試みが全国的に一般化しておらず、後述する「同調圧力」のような「見えないレールが子供達を縛っている」ことに気がつきます。
これは私見ですが、昨今の中学校受験ブームは大正デモクラシーの頃と同じ「需要の高まり」ということも出来ますし、公立学校への声なき批判・反面教師と考えられるかも知れません。

更に、第3指令と第4指令が「非常に広く捉えられ」てしまい、これまでのコラムでも触れましたが戦後の歴史教育に大きな影を落とすこととなり、結果として現在の人文社会教育において近代歴史の扱い方が希薄となっていることを憂います。

1月2月の学年の最終場面で、授業進行と受験シーズンと重なり授業自体がスルーされることが多いこと、非常に大問題かつ嘆かわしいと思料します。
どう考えても、現代人にとって、縄文弥生時代よりも近代史の方が重要でしょうに。
◆ゆとり教育とは何だったのか?

一瞬脱線してゆとり教育に言及します。

社会的一般論として「失敗であった」と認識されており、学習塾大手の日能研が中吊り広告でネガティブキャンペーンを敷きましたね。
ここではゆとり教育の内容および是非に立ち入りませんが、今でも象徴的に触れられることと言えば「円周率は3」のエピソードでしょう。

しかしながら、これには少々誤解がありますので、その点に触れておきます。
誤解を整理すると、こういうことになります。
  • ・2002年度からの学習指導要領(ゆとり教育)において
  • ・円周率を3として教えることになった
  • ・だからゆとり教育は失敗
  • 実際は、
  • ・円周率としては3.14を用いるが、目的に応じて3を用いて処理できるよう配慮する
ということであり、機械的に「円周率に必ず3を適用した」訳ではありません。

なお、円周率とは「真円における直径と円周の比」であり、円周の長さが直径の3.141592653…倍であるということを示しています。
アルキメデスさんは偉いのです。

そもそも円周率が3で良いとは「円を正六角形とみなす」ということ、タイヤが「正六角形で転がるか?」「ボール(球)が存在しない」という話です。
小数点計算が煩雑とかいうレベルではなく、感覚として「場合によっては3で良い」としたその発想に仰天します。
ゆとり教育を議論した分科会は何してんの・・・いい訳ねーだろ?
と強く思いますね。
詰め込み教育を揶揄するあまり、円と正六角形を同一視してもよいと認める肌感覚の方が恐ろしい。

これも有名な話ですが、2003年の東京大学理系数学第6問は「円周率が3.05より大きいことを証明せよ」であり、普通にアルキメデスさんのやり方で三角比を用いて、正八角形か正十二角形の周の長さと外接する円周の比較計算をすれば良いのですが、この問題の大学側の出題意図が「円周率は3に対する抗議」という噂があります(大学が表明していないので真意は分かりません)。

更には、本問は三角比を用いずとも、普通の中学生でも分かる解法が存在します(座標と二点間の距離を使う方法です)。
中学生でも解けるという点が実に面白い、個人的に「マジで喧嘩を売っている」としか思えません。

ここまでざっとも見てきましたが、日本の教育制度は、

寺子屋(アナログ的)

学制(デジタル的)

大正デモクラシー(アナログ的)

軍国主義(デジタル的)

戦後(大混乱)

という変遷をたどっております。
◆人本来の原風景とは?

算数も数学も「一意に答えが求められる」印象がありますが、それは誤解。
それはペーパーテストの話であって、我々の身の回りの事象は何一つとして一意に定まりません。

第2回のコラムでは「確率分布」の話を少ししましたが、世の中の風潮は「一意=最適解を求める」やり方が信奉されているように感じるのは私だけでしょうか?

将棋の世界は天才達の頂上決戦です。
つい最近まで、棋士vs機械学習(ディープラーニング)の話題があり、機械学習が人間を越えたという一定の結論に達した後、現在では双方の共存関係になっています。
藤井聡太棋士や豊島将之棋士は研究に機械学習ソフトの評価値を参考にしていることが知られており、多くの棋士が大なり小なり機械学習ソフトを研究に取り入れていると伝えられています。

即ち、人間(棋士)が機械学習ソフトの評価値を参照して序盤・中盤・終盤の各場面における「最善手」を探ることが若い世代の棋士に一般化しており、ファンは棋戦の一手一手で変わる評価値に一喜一憂します。
藤井曲線(※)みたいな。

(※)補足:藤井曲線

昨今の棋戦実況において、機械学習ソフトが算出する「形勢を評価する値=評価値」を表示することが一般化している。
当然、開始当時の形勢評価値は「先手:50%、後手:50%」であるが、序盤・中盤・終盤と推移するにつれて評価値も目まぐるしく変化する。
藤井聡太棋士の場合、この評価値が右上がりに推移して、最終的に100%=勝利となるので、この「上がり続ける評価値のグラフ形状」が藤井曲線と呼ばれている。
ところで、ここで間違ってはならないのは「機械学習と人工知能(AI)は異なる」ということです。

現在の風潮では機械学習を積み上げたソフトウェアをAI(Artificial Intelligence)= 人工知能と呼びますが、それはある一種・一定のインプットに対する傾向値としてのアウトプットを出すものであり、人間の感性としての善悪やTPOを判断する機能を持ちません。
無論、機械学習を前提としているので「無から有を生み出すこと」はあり得ません。

棋士の世界において機械学習が参照するのは「過去の棋譜」と「機械学習同士が戦った棋譜」であり、ゼロから独創的な戦術を生み出している訳ではありません。
無論、既に定石として認知されている局面に対する「アレンジ」はあり得ます。
しかしながら羽生善治棋士が「大局観」と称した実体は、機械学習の評価値では表現出来ないものです。

更に「この評価値の算出根拠」は全てブラックボックスであり、誰にも(機械学習ソフトさえも)「なぜこの評価値になるのか?」が分かりません。
何か分からないが、答えのみが提示されて優劣を論じているということです。
私はこの「ブラックボックス」に非サイエンスを感じます。

先ほどの「大局観」もそうですが、棋士が「直感力」や「発想力」という言葉で表現する知能がありますが、この表現にはデジタル的な雰囲気がありません。
このような天才達の頂上決戦の世界は別としても、我々実務の世界においても直感力、それは善し悪し判断やリスク回避の場面で発揮されるものですが、こうした「直感力」といった価値観や考え方が軽視されている感覚を持っております。

たとえば「案件としておかしい」とか、初対面であっても「この人とは付き合えない」とか。

今回のコラムでこれまでで何度か出ていますが「主語が誰で目的は何」という一番基本的なことを忘れているからではないかと思料します。
確かに、評価値は分かりやすくゲーム感覚で素人でも楽しめます。
しかしながら、実際に盤上で対峙している棋士にしてみれば、全ての局面は森羅万象であり、その局面の評価が「一意に定まる」と見なす思考に違和感を持っていると思料します。

そもそも、機械学習が「何手先まで読むか?」によっても評価値は異なりますし、機械は無限に読み続けることが出来ます。

人間は無限に読むことが出来ないので「直感というひらめきで戦う」というスタイルですね。

藤井聡太棋士が出る前は「佐藤天彦名人がPonanzaに負けた」と棋士全面降伏さながらの意気消沈状態でしたが、過去の棋譜や定石・戦略を一切否定することなく将棋のミクロコスモスが進化出来ることを世に示した藤井聡太棋士に、多くの先輩棋士達(いずれも一騎当千の天才達)が刺激を受け、機械学習との共存を実現している新時代の到来を私はワクワクして見ております。

アナログ的とは、「人間が主語」であり「『人間のために』という目的がある」という論点ですね。
◆アクティブ・ラーニングの光と影

最初にアクティブ・ラーニングの定義を抜粋します。
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。
学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。
発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。

出典:新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~(答申)(平成24年8月28日)用語集より

ほぼイメージ通りでして、付け加えることはありません。


昨今の小学校において、科目に「英語教育」と「プログラミング教育」が加わることは周知でしょう。

これは決して偏見ではないのですが、小学校の先生を志す方の属性は「文系」ではないでしょうか?
中学校以上であれば科目別の分業体制が敷かれていますが、基礎教育の小学校においては「一部科目を除いて『一人の先生が全ての科目を教える』」ことになりますが、ここでの「属性が文系」とは、自身が学生の当時に理系科目が苦手で消去法的に文系を選択し、そういう方が職業として小学校教師を志したというのが一般的傾向であると思料します。
少なくとも、私がいろいろな立場や場面で多くの「小学校の先生」を見てきた身として、こうした傾向を非常に強く感じます。

これまでのコラムでも触れましたが人文社会系科目は文化であり、深く理解することが必要不可欠な重要科目であり、私には文系を揶揄する意図は決してありません。
文系と理系の論理的思考はセット、言わば車の両輪な訳で、オバマ元大統領のコラムでも触れましたが、統合言語能力の醸成は単純に語学の学習を積めば良いという話ではありません。

これは、我々実務家世界の根幹であると思料します。

寺子屋の例のように、アクティブ・ラーニングは教える側の適切な管理と制御、要するに生徒ごとの理解度や履修度に則すべきであることと、そうした差異が生じることは仕方ない前提にて、子供達にその差異を認識させつつ多様性や協調性の観点から相互の尊重協力を促すという、非常に高度な人間操縦が必要になりますが、それが卒なく出来るのであればアクティブ・ラーニングが教育現場で問題になることはあり得ません。

実際のアクティブ・ラーニングは、現在の教育現場が潜在的に抱える各種矛盾、たとえば教師の雑務的作業が多すぎるといった「教師の業務容量に依存するという矛盾」や「教師の個人技に委ねてしまう」という矛盾を一切解決することなく導入されています。

効率性はタブレット等のデバイスの導入と運用で解決しようとしており、冒頭でも触れた根本的なコミュニケーションの質の問題や、生徒間の多様性(アナログ的)といったことが解決されません。言い換えると「寺子屋(個人主義)と学制(効率主義)を同時に展開しているようなもの」と思料します。

このことは「教育現場で教える内容はカリキュラムのみにあらず」という、人が主語という原風景を忘れ去っているから生じていると思料します。

昨今の「リモート授業」ではカリキュラムは教えられるかも知れませんが、生徒同士の協調や相互承認は言うに及ばず、「なんで?」という好奇心の醸成にはほど遠い状況です。
◆今年のノーベル物理学賞受賞者の「あの発言」

受賞内容はここでは触れませんが、今年のノーベル物理学賞に選ばれたプリンストン大学上級研究員の真鍋淑郎氏の発言である「日本に戻りたくない理由の一つは、周囲に同調して生きる能力がないから」「日本の教育改革を促して欲しい」の発言が一部で物議を醸しております。
(誠におこがましい限りですが)私なりに文意を読み解くと、
  • ・日本では、自分の好奇心=自由意志に基づいた研究が難しい
    (右にならえ、強制的な同調圧力)
  • ・好奇心を持ち続けることは個人の能力
    (誰かが教えてくれるものではない)
  • ・答えは一意に決まらない、という教育は模索出来ないのか?
    (彼は、現在では当たり前である気象モデル・シミュレーション分野のパイオニアです)
ということではないでしょうか?

特に2番目の指摘は、前述の戦後の教育改革の弊害を是正せずに引きずってきた弊害にあると思料します。
視点が重要です。
機械学習の導入やデジタルデバイスはいろいろ場面で利便性を与えてくれますが、最終的に感じ取って判断するのは人間であり機械ではありません。
この視点は、幼少期からスマホやタブレット端末を操作し、アプリが算出する評価値を「疑いもなく参照する」世代に対し是非とも伝えなければならない視点の筈です。

人間が主語だから。

そして人間が主語の延長線として「なぜ?なんで?」という好奇心や創意工夫が生み出されるのではないでしょうか?

このことは業態を越えて我々実務家の共通した課題ですよね。

仮に機械の評価値で全てを判断するなら、それは機械学習が真の意味で人工知能へと昇華した段階であり、技術的特異点やシンギュラリティと言われる段階・・・
人間不要論に発展しかねない段階ですが、どっこい、そのような事態にはならないと思料します。
人間が主語だから、人間なめんなよ、と。

好奇心とは知性ですよね、機械学習が持てるはずはないのです。
真鍋淑郎氏は「好奇心という知性の醸成こそが教育の目的」であると主張されているのでしょう。
◆温故知新に向けて

今回は教育改革を通して、アナログ的な人間の原風景についていろいろと見て参りました。
実際、直感力とまで行かなくても発想力は非常に重要です。

少し脱線しますが、前述の東大入試の「円周率証明問題」ですが、実は受験生の出来が非常に悪かったという話を聞いています(どこで聞いたか忘れました)。

更に、別の年度に普通の教科書に載っている三角関数の加法定理の証明問題(まずは三角比を定義して加法定理を導出せよ)が出題されましたが、こちらも壊滅的に「出来が悪かった」と聞いております。

このことが意味することを考えると、一意に定まるペーパーテストの問題解決を重視するあまり、知性の底流にある「基礎に対する理解」を割愛してしまい、結果として「ひねられたら手も足も出ない」という小手先の状況に陥った学生が多かったからだろうと思料します。

この手の話は結構ありまして、効率性重視の学習方法の弊害である「発想力の欠如」と無関係ではないと思料します。

棋士の盤上の死闘がそうでしたが我々実務家の周りも森羅万象ではないですか?
パターンマッチングで乗り切れるほど世界は単純化も理想化もされておりません!


少し例を挙げると、一流の職人さんやスポーツ競技者は自分が使う道具にこだわりがあり、無論手入れも自ら行い、道具の仕組みはおろか自らのパフォーマンスを発揮するため「手入れの論理」にも精通し習熟しています。
道具が使えればいいのではなく、道具の仕組みはおろかアラインメント(現場での微調整)すら自ら行います。
考えるとはこういうこと、手もなくひねられた学生は「基礎学習が足りなかった」のでしょうが、我々実務家も他山の石としなければなりませんね。

そういえば、2019年の物理の交流回路問題も壊滅的だったそうで・・・、
あっそうか「傾向が変わった」って言うんですね(出題側は頑迷に傾向を変えていませんが・・・)。

ある一定の答え(機械学習の評価値)は一見分かりやすいのですが、その評価の根拠や前提をブラックボックスとするならば過信は禁物です。
仮に「ブラックボックスでも構わない」と言うならばそれは割り切りの話であり、考えもせずに全面的に盲信するということは自らの頭で考えることを放棄するということです。
第2回コラムで触れました。

これは先日知った興味深い話ですが、秒単位で更新されるビッグデータのリアルタイム処理で、普通に機械学習エンジンでデータ処理を行ったのでは処理に時間が掛かりすぎて「リアルタイム処理にならない」という事例があり、機械学習エンジンの処理プロセスを段階的に数学的に評価し、実質的に機能していない処理プロセスを大幅に削減することで「リアルタイム処理を実現した」という話を聞きました。

この「機械学習エンジンのプロセスを段階的に数学的に評価する」とは、具体的には「普通の機械学習エンジンのユーザーであれば『ブラックボックスで仕方ない』と最初から諦めるところを、同エンジンのプロセスを解き明かし、プロセス毎の評価値の変遷を割り出して、無駄なプロセスを削除しシンプルにした」ということです。

この話、CPUの処理能力が乏しくメモリ空間に制約があった35年ぐらい前には当たり前の話でした。

ソフトウェア開発で、コンパイラが1次的に出した機械語コードには無駄(な命令)が多いので、人間がCPUの身になって「機械語コードの無駄な命令をそぎ落としたり命令文自体を最短にしたりと最適最短プログラムを開発していた」という話は50代以上が懐かしく思う昔話ですが、それと同じことが最新の機械学習の実装の場でも行われているという事実。

まさに温故知新と言わざるを得ません。
この話、私はうれしくなりました。

補足:ファミコン版ドラゴンクエスト

プログラム容量は驚異の64KB(キロバイト)です。
1MBが1,000KBですが、あなたのスマホで写した写真は1枚で優に2MB(2,000KB)を越えますから30倍以上でしょう。知恵を使って64KBメモリを的確に分け、8bitCPUでもサクサク動く本体プログラムに加えて絵や音楽データを「押し込んだ」技術はミッシング・テクノロジーとなりました。
「ふっかつのじゅもん」はカタカナ20文字って知ってました?
機械学習全盛期、その対峙の仕方に私は敢えて異論を唱えます。
発想力や直感力が最大限に威力を発揮する場面は、「我々も相手も人間=アナログ的な存在である」という当たり前な事実を忘れないことであると思料します。

今回はこの辺で。