第5回 |コラム澤口 「多様性を尊重する」           

一般社団法人 日本事業戦略総合研究所(co-founder)、理事の澤口です。
全12回シリーズで、個人的に興味深かったことについて、自由気ままに書き綴って参りますので、お時間がある方はお付き合い下さい。


今回の第5回のお題は「多様性を尊重する」です。

これまで第1回から第4回とコラムを重ねてきましたが、全ての回の底流に「変化に対応する」というエッセンスがありました。


現在我々を痛めつけているコロナ禍は環境変化ですし、労働生産性を巡る政策転換という地殻変動が我々の働き方の脅威になり得ると述べてきました。

変化への対応について、私も例外ではありませんが、人には「現状バイアス」という「現状維持が心地よい=冒険も変革もしたくない」という変化を嫌う基本的な感情が(程度の差こそあれ)存在します。

これは決して悪いことではなく、これまでの学習が通用する前提にて、過酷な自然環境下において生存率を上げる「生き残るための知恵」というべきものです。

前例主義、「前例がないから対応出来ない」とは一昔前の役人の常套句でもありましたが、これは悪意を込めて「現状バイアス」を説明したものでしょう。
我々が現状バイアスを持つことは、進化の過程における結果です。
物理でいう「慣性の法則」のように同じ運動を維持し続ける・・・過去の前例にしがみついて茹でガエルになってしまう、と否定的に言ってしまえばそれまでですが、確かに変化対応という文脈においては相反する姿勢です。

似たような姿勢に「成功バイアス」があります。
過去の成功体験を忘れることが出来ず、周囲からの適切なアドバイスに対しても「自分の経験」のみを信じて耳を傾けない・・・老害という否定的な文脈で語られることが多いと思料しますが、一方で、これも過酷な自然環境における進化の過程で人が身につけた「生存率を上げるための処世術」に他なりません。
前例踏襲は決して悪い価値観ではなく、問題は「前例踏襲のみに立脚」という考え方にあることは明白です。

「現在は100年に一度の変革期」という標語を最近は頻繁に耳にしますが、「変革」や「100年に一度」とは具体的に何を指すのでしょうか?
今回のコロナ禍は、確かに社会の様々な新陳代謝のスピードを飛躍的に上げていることは事実ですが、ではコロナ禍が無ければ新陳代謝が起こり得ないかと言えばそうではありません。

例示すれば、世界的な環境意識の高まりを受け、自動車の駆動システムを起点とした新陳代謝、即ち「自動車システムの再定義」が起きています。
これまでの自動車とは「(化石燃料を燃やす)内燃機関=エンジンが駆動システムであるもの」でしたが、今後は「電気モーターを駆動システムとする」方向に怒濤の潮流が起きています。
日本のお家芸は某T社のように「内燃機関と電気モーターの併用=ハイブリッド」ですが(最近は水素も言い出しています)、世界の潮流は「二酸化炭素を排出する内燃機関の否定」にあり、見方を変えると自動車の電動化=家電化となり、参入障壁の低下や、部品点数の大幅削減など業界の垂直構造に激震をもたらします。
そしてこの潮流は自動運転技術とも融合し、中国や米国のEV(Electric Vehicle)ベンチャーが猛烈な勢いで市場獲得に動いています。

昨今報道されましたが、佐川急便が中国EVベンチャーから運送車両を大量に調達したニュースは衝撃を持って受け止められました。
特定地域内の配送に使う車両は短距離かつ小回りが効いた方がよいのでEVはうってつけですが、なぜ国内メーカーのEVを採用しなかったのか・・・こうしたところに怒濤の変化の片鱗を見ます。

このように日本の自動車業界および産業構造は強制変革が迫られており、各企業は鮪や鰹と同じで「模索して動き続けなければ死んでしまう」訳です。
水素と言い出したくだりは、国内自動車産業のコアコンピタンス=内燃機関ノウハウを引き続き活かすことにあるだろうと推測しますが、世界の自動車メーカーがこぞってEVに舵を切っている中、中古車市場やメンテナンスのしやすさ、運営コストを考えると、水素が世界でどこまで採用されるか(味方をどこまで増やせるか)が課題になります。
実際のところ、資源が無い日本は付加価値貿易でしか労働生産性を上げることによる外貨獲得ができないので、国家として現在の自動車産業に匹敵する「外貨獲得エンジン」を創出出来なければ・・・と、背筋が寒くなります。

視点を変えて、自動車部品メーカーの経営者の立場で前述「怒濤の変化」を考えると、

  • ・新たな自動車におけるキーテクノロジー(金属・樹脂異種接合等の燃費対策目的の軽量化対応)やキーデバイス(更にエネルギー密度が高い安全な電池部品の開発)で戦うか?
  • ・長年培ってきた製造技術を他分野に転用して新たな付加価値製品を生み出すか?
となりますでしょうか。

前者は研究開発型で従来は巨大資本を有する大企業の独壇場でしたが、昨今は意欲的な若手エンジニアの主戦場に移行しつつあり、資金調達手段も整備され、国の産業政策とも合っていると感じています。
後者は技術転用の話であり、「どの他分野に?」という発想・アイデアを仲間内で多く出し合い、「手探りの開発を進めていくか」という具体的な行動を指しており、アイデアも出なければ行動もないのであれば「環境にグラグラ茹でられて茹でガエルになる」だけです。

我々は標語の世界に生きているのではなく、資本主義ビジネス世界に生きております。

今「仲間内で」と言いましたが、我々個人には得手不得手があり、かつ能力や使える時間(1日は等しく24時間)に限界がありますので、必然的に一人ぼっちで物事を遂行できず、第1回のコラムで触れたように様々な課題を仲間と共有して対応することになります。

では、前述の「怒濤の変化」に対して生存率を高く対応するためには、どのように仲間と向き合えばいいのでしょうか?
こうした「生存の危機に対して組織的に向き合った歴史事象」として、現在の我々に至る人類進化の興亡があり、そしてその先にある社会における役割分担に対する考察を避けては通れません。

今回のコラムは、人類進化の興亡として絶滅した旧人類:ネアンデルタール人と生き残った我々の祖先である新人類:ホモ・サピエンスについて世界中の研究者達が行き着いた「ネアンデルタール人が絶滅し、我々ヒトの先祖であるホモ・サピエンスが生き残った」有力学説を紐解き、更に個々の多様性を尊重することで人類が進化したことを通じて「怒濤の変化に対する知恵」を探ります。
お付き合いいただけると幸いです。

◆(知識の整理)猿人・原人・旧人類・新人類への進化

話の理解を深めるため、時間軸に沿って各進化の過程を簡単に紐解きます。

・猿人

猿人は約700万年前から約130万年前まで生息していた初期の人類でして、中学生ぐらいの時に社会科で「アウストラロピテクス(南のサルの意)」という名称を聞いたことがあるでしょう。
化石はアフリカ大陸でしか見つかっておらず、二足歩行を行い、道具を使っていたことが確認されています。
通常、ゴリラやチンパンジー等の類人猿は四足歩行ですが、(諸説あり)当時のアフリカ大地溝帯隆起(地殻変動)により大地溝帯の東側が乾燥化し熱帯雨林からサバンナへ変化したため、生息域が木の上から地上となり二足歩行に移行したと考えられています。
「重量がある頭」を「背骨で支えることが可能」になり、脳容量は400ccから500ccに達したことが化石から判明しています。
身長は140cmから150cmくらいだったようです。
猿人の進化形の一つである「ホモ・ハビリス」は約240万年前から140万年前まで存在し、殺傷能力が高い石器を使い狩猟を行っていましたが、学説では後の原人に進化せずに絶滅したと考えられています。

・原人

原人は約180万年前から登場する人類であり、前述アウストラロピテクスが進化したと考えられています。
人口爆発による食料不足をきっかけにして初めてアフリカを出て(第1次出アフリカ)、生息域はアジアにかけて繁栄しました。
ジャワ原人や北京原人という名称を聞いたことがあるでしょう。初期の原人の脳容量は750ccから800cc程度と猿人の二倍程度になり、後期の原人では1,100ccから1,200ccに達したそうです。
身長は180cmから160cmと結構大柄だったそうです。
そして火を使いました。
アフリカを出た原人で「ネアンデルタール人に進化した種」を除き、氷期(後述、氷河期の方が一般的?)の環境変化により絶滅したと考えられています。

(参考)フローレス原人
インドネシアのフローレス島で発見されたフローレス原人について、2003年にオーストラリアとインドネシアの共同研究チームが成人の全身骨格の化石を発掘、その身長は約1.1mで推定体重はわずか約35kg、脳容量は400ccしかありませんでした。
検証された事実から発掘個体は子供の個体ではなく、かつ病気による生育不良も認められないことから、健康な成人と考えられています。
通常、進化は「脳容量が大きくなること」や「活動を支える体躯が大きくなること」という印象があり、多くの研究者も同じ固定観念を持っていました。
まさか海洋渡航技術を持たないジャワ原人が、ウォレス線を越え、どの時代においても陸続きにならず「海を渡らなければ到達できないフローレス島」に到達し、同島の閉じた世界において「小さくなる」という独自の進化を遂げたとは考えませんでした。
前述の猿人:ホモ・ハビリスがアフリカから渡ってきたと考えた研究者もいたぐらいです。
人類進化学者の海部陽介氏が最先端の研究をされ、他の発掘化石からも「退化による環境順応」が有力であると考えられています。
つまり、進化の本質とは、「大きくなる」ことではなく、環境に順応して生き残ることです。
(補足)ウォレス線
イギリスの探検家であるアルフレッド・ウォレスは、1854年から1862年にかけて東南アジアで生物の研究を行っていた際に「ある海峡を境に生物の特徴が変わる」ことに気がつきました。
バリ島とロンボック島、ボルネオ島とスラウェシ島、ミンダナオ島とモルッカ諸島(試しに地図でご確認を)にその場所を見つけ、その境の西側は東洋区の生物、東側はオーストラリア区(あのカンガルーやコアラの有袋類を含む)の独特の生物が見つかることを発見しました。
この境を結んだ線をウォレス線と呼びます。前述フローレンス島は東側(オーストラリア区)、ジャワ島は西側(東洋区)になりますので、尚更、オーストラリア区に属するフローレス原人の存在が異彩を放ちます。

・旧人類

旧人類は約70万前から20万年前まで生存しており、旧人類における最終進化系がネアンデルタール人(後述)であり、約3万年前まで生存していました。脳容量は1,500ccとなり、意外にも現在の我々よりも脳容量が大きいです。

・新人類(ホモ・サピエンス「ラテン語で賢い人」)

アフリカ大陸に生存していた旧人類が進化して新人類となったのが約20万年前と考えられております。約7万年前に人口爆発によりアフリカから世界中に進出(第2次出アフリカ)しており、現在の我々人類は「アフリカに起源を持つ単一種」であると言えます。

◆旧人類:ネアンデルタール人と新人類:ホモ・サピエンスについて

ネアンデルタール人は、ドイツのネアンデル谷(ドイツ語で「谷」は中性名詞:tal、タール)で最初に発掘された旧人類であり、遺構から現在のヨーロッパから中近東にかけて生息していたと考えられています。発掘された骨から、筋骨隆々であり身体能力が非常に高かったと推定されています。
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとは、約70万年前から約60万年前にアフリカにおいて繁栄した「初期の旧人類」を共通の祖先に持ち、

  • ・(旧人類の最終進化形である)ネアンデルタール人へ進化したもの
  • ・アフリカにおいて新人類:ホモ・サピエンスに進化した後、約7万年前に第2次出アフリカを果たして世界中に拡散したもの
と別々の進化を遂げたと考えられています。
喩えるなら「叔父さん(旧人類)と甥っ子(新人類)」って感じです。

つまり旧人類:ネアンデルタール人が新人類:ホモ・サピエンスに進化した訳ではなく、この「共通の祖先を持つ」ことが重要な意味を持ちます。

◆ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは交配していた?

ショッキングな書き方をしますが、我々人間と類人猿(チンパンジーやゴリラ)が交配しても子孫は生まれません。
これが種の違いであり、人類が猿人→原人→旧人類→新人類と進化する過程で類人猿からゲノム的に遠ざかっていったことを意味します(もっとも、人類とチンパンジーのDNAの塩基配列は98.70%が一致するそうです、結構一致しますね)。
※チンパンジーのアデノウイルスは人類に感染しない(宿主が違うから、第2回コラムご参照)ので、某社の新型コロナワクチンでは改変ウイルスの「運び屋=ウイルスベクター」にチンパンジーのアデノウイルスを採用しておりますが・・・(これ以上触れません、御用学者がボロを出す典型例です)。

2010年5月の科学雑誌サイエンスにおいて、アフリカ以外の人類にネアンデルタール人のDNAが1%から5%程度現存しているという報告がなされ、これが事実上の「ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとが交配していた証拠」と考えられています。
日本人にもネアンデルタール人のDNAが2%程度存在するそうです。
この「DNAが1%から5%程度現存している」とは、具体的には、DNAの多くの箇所において発生した(塩基配列の)突然変異を、ネアンデルタール人と我々人類が「共有している」ということです。ちなみに、ネアンデルタール人の全ゲノムは2008年に解読されております。

アフリカ南部のカラハリ砂漠に住む狩猟採集民族であるサン人は、人類の祖先=第2次出アフリカ時に「アフリカに残留した新人類を祖先とする人類」と考えられていますが、サン人からはアフリカ以外の人類のゲノムとネアンデルタール人のゲノムに共通して見られる「DNAの(塩基配列の)突然変異」が検出されないことから、第2次出アフリカを果たしたホモ・サピエンスがネアンデルタール人の生息域に進出し、そこで出会って交配し、その後世界各地に散らばっていったと考えられています。

双方の祖先が共通であるためゲノム的に非常に近いため交配が可能になり、世代を経た交配によってDNAの(塩基配列の)突然変異を双方が共有していった・・・ということになります。
出会いはどういうシチュエーションなのか、どういうドラマがあったのか・・・妄想しますね。
2つの種の出会いが平和的であって欲しいものです。

◆ここまでのまとめ

猿人→原人→旧人類→新人類の進化をまとめると、次のようになります。

  • ・アフリカ大地溝帯の地殻変動によりアフリカ大陸の東側(太平洋岸)の熱帯雨林が乾燥化することで、「木の上の生活に適した四足歩行」から「サバンナでの生活に適した二足歩行」に移行し、二足歩行が脳容量の増大を促し、道具を使う猿人へと進化した。
  • ・猿人は更に原人に進化し、第1次出アフリカによりアジア地域まで広がった。
    後の旧人類(例:ネアンデルタール人)に進化した種を除き、殆どが氷期の環境変化により絶滅した(ジャワ原人→フローレス原人という環境適合も起こった)。
  • ・アフリカに留まった原人が旧人類への進化を経て新人類に進化し、第2次出アフリカにより世界中に拡散して現在の我々の祖先となった。
    独自の進化を遂げた旧人類であるネアンデルタール人と第2次出アフリカを果たした新人類:ホモ・サピエンスとが同じ時代・同じ生息域で出会い、交配を繰り返すことで、新人類にネアンデルタール人のDNAの一部が承継された。
そうなると疑問は一つ、「新人類:ホモ・サピエンスは生き残ったのに、なぜネアンデルタール人は絶滅したのか?」ということになります。
我々の祖先である新人類が生き残っているので、単に環境の変化では説明できませんよね?

以下、学会で論争になっている「絶滅の理由」について考えます。

◆(論点1)話す能力の優劣

話す能力=声を出す能力に対して解剖学的にアプローチした研究があります。
我々の喉には「じん帯や筋肉」で構成されている声帯が存在しており、声帯を使って明瞭な基本周波数の「声」を発することができます。男性で150Hz、女性で250Hzから300Hzぐらい。
ヒトが声を出すために、

  • ・肺から喉(声道)へと空気が送り出され
  • ・送り出された空気が声帯に到達し
  • ・声帯が振動して喉(声道)内の空気も一定周波数で振動し
  • ・振動している空気が一気に広い空間である口へ出る
ことで音声になります。

要するに、ネアンデルタール人が我々と同様の喉(声道)の構造を持っていたか否かが解剖学的に解決されれば問題解決の一助になる筈です。

ボストン大学の考古学者であるアンナ・ゴールドフィールド氏は「舌骨」という食べ物を飲み込む時や話す時に重要な骨に着目します(当然、我々も持っております)。
舌骨は非常に小さくて脆い骨だそうですが、発掘されたネアンデルタール人のある個体から完璧な舌骨が残っていたので、発掘標本を元に3Dモデルを解析してネアンデルタール人の喉(声道)の実体と挙動をシミュレーションしました。
その結果、ネアンデルタール人の舌骨は現代の我々よりもほんの少し前方に位置する可能性が高いことが判明し、合わせて類人猿が持つ(我々人類は持っていない)大きく吠えるために必要な「喉頭嚢(こうとうのう)」という器官を持っていないことも発見しました。

一方で、3Dモデルは「ネアンデルタール人の喉(声道)が太い」ことも示しており、この結果、確かに解剖学的に声を発する能力を有していると認められるものの、太い喉(声道)では我々のような基本周波数の明瞭な母音を発声出来ない可能性が高いという結論に達しております。

以上の実証研究から、

  • ・ネアンデルタール人は「話せる能力」を有していたが、どこまで駆使したかは不明
  • ・新人類に比べて発音の周波数が限定され、我々の言葉とは趣が異なるものであった
とアンナ・ゴールドフィールド氏は結論付けています。

このように、旧人類:ネアンデルタール人と新人類:ホモ・サピエンスでは喉(声道)の構造に起因する発声に大きな差がありそうです。最新の考古学が3Dシミュレーションを駆使していることにも驚きです。

◆(論点2)脳容量の優劣

前述したように、「脳容量の巨大化」は人類進化の一指標になっております。
これも前述の通りで、ネアンデルタール人の脳容量は1,500ccにも達しており、新人類のホモ・サピエンスの脳容量は1,350ccですので逆転現象が起きています。
これは、旧人類から新人類への進化の過程で顎が後退することで骨格構造的に脳容量が適正に収まったと解釈すべきであり、単純に「脳容量増大が進化ではない」ことを示しています。

更に、ネアンデルタール人は自然環境への独自の適用やその身体能力において、我々の価値観では測れない能力を持っていたのではないかと考える研究者もおります。
脳の形から判断して視覚野が発達しているそうで、これはネアンデルタール人が視覚に関係する能力でホモ・サピエンスを凌駕していた傍証と考えられるそうです。
身体能力に勝るネアンデルタール人は、狩猟に必要な空間把握能力とか動体視力に優れていそうです。

◆(論点3)文化レベルの優劣

ネアンデルタール人が「弱者を介護し」「埋葬時に死者を追悼していた」ことは遺跡から証明されています。
フランス南西部のラ・シャペルーサン遺跡から見つかった遺構では、発掘された骨のほとんどが「歯を失い、腰と背中に問題を抱えており、補助なしの単独移動が困難だった」と考えられる状態であり、ネアンデルタール人が私たちと同じように病人や老人の世話をしていたことの証拠であると考えられています。

アメリカの考古学者R・S・ソレッキ博士は、イランのシャニダール洞窟において、ネアンデルタール人の化石と共にノコギリソウやヤグルマギクなど数種類の花粉を大量に発見しました。
化石付近の花粉の量が周辺の花粉の量と比べて非常に多い事実と、この草花が昔から薬草として利用されている事実から、ソレッキ教授らは「ネアンデルタール人は死者を悼む心を持ち、弔意の意として草花を遺体に添えて埋葬した」と主張しています。
これは有名な話なので、ご存じの方も多いでしょう。

その他、ネアンデルタール人が自分の身体を顔料で彩り鳥の羽や色味のある貝殻で作った装身具で身を飾っていたことも遺構から判明しており、仲間に寄り添い死を弔う行為や埋葬文化も含め、宗教とまで定義出来ないかも知れませんが、少なくともネアンデルタール人の精神世界の深遠さ(profound)を物語っていると考えて問題ないでしょう。
単純優劣の問題ではありませんね。

◆(論点4)生存競争力の優劣

ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの明確な違いは「体格」であり、これは基礎代謝の差になって表れます。
一説に、ネアンデルタール人の基礎代謝量はホモ・サピエンスの1.2倍であることが判明しており、喩えるならば「燃費が悪い体」でした。
両者が共存した時代は氷期(後述)ですので、狩猟対象の動物は小型化し、狩猟スタイルはネアンデルタール人が得意な大型動物との格闘パワー系狩猟ではなく、スピードに対応したスタイルに変化していきました。
当然、二者間において「奪う・奪われる」という個別事象は起きたでしょうし、ネアンデルタール人の遺構ではカニバリズム(共食い)の痕跡も発掘されているように、生存には極めて厳しい自然環境下でした。

一方のホモ・サピエンスは、骨を原料にした針を発明して寒さをしのぐ(毛皮)服を発明します。
こうした発明の共有や伝承には、前述のような「喉(声道)による基本周波数の発声=明瞭な言語の運用」の下に可能になったと考えて無理はありません。

更に、狩猟対象の動物が小型化かつ俊敏になることに対応すべく、非力であっても遠方から獲物めがけて刃先を投げられる「投槍器(とうそうき、アトラトル)」の発明とその集団戦法、言うなれば「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」戦法を発明しました。

こうした発明を集団内や交流がある他集団および次世代に承継していったことで、結果としてホモ・サピエンスがネアンデルタール人の生存域を侵し、言わば「ズカズカ入り込んで獲物を横取りしていった」と研究者は考えています。

その他、手の骨格的にネアンデルタール人は針を作るような繊細かつ細かい作業が出来なかったのではないか、という学説もあります。

(参考)氷期-間氷期
一般には「氷河期」の方に馴染みがあるかも知れません。
約100万年前までは氷期(寒冷)-間氷期(温暖)サイクルが4万年周期であったことが分かっており、100万年前を境に同サイクルが10万年周期と長くなっています。
この一周期は「のこぎり型」であり、間氷期の始め(要は前の氷期の終了時点)から次の氷期のピークまでに9割以上の時間をかけて平均気温が低下していき、氷期から間氷期へは気温が一気かつ急激に戻るというサイクルを繰り返します。

過去32万年間の気温と大気中の二酸化炭素濃度にはきわめて連動性があるという実証研究結果があります。
現在は「氷期に向かう間氷期」にあるとのことですが、産業革命以降の過去200年間における化石燃料の消費による大気中の二酸化炭素濃度(温室効果ガス)増加の影響により、地球史上のいずれの間氷期にも見られない程気温が上昇しているそうです。

◆(論点5)その他の論点

  • ・(自ら自滅)ネアンデルタール人の人口は5千人~7万人程度に過ぎず、わずかな環境変化による人工減少が致命的となった。
  • ・(自ら自滅)ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとの交配が進むにつれて、純血のネアンデルタール人の個体が少なくなり遺伝的な支障をきたした。特定ウイルスへの抵抗力を失ったとか?
  • ・(滅ぼされた)ホモ・サピエンスに暴力的に滅ぼされた。
大体こんなところですが、どれも決定的根拠がありません。

◆多様性とは~自閉症スペクトラムを巡る研究~

さて、このように勝者となり現在地球上で繁栄を享受することになる新人類:ホモ・サピエンスですが、その繁栄の原動力について興味深い専門家の実証研究を紹介します。

京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏は、自閉症スペクトラムについて、障害ではなく「人類の変異(能力発現)のひとつ」であると主張されます。
ご承知の通り、自閉症スペクトラムの人は「対人関係が不得意である」一方で、「こだわりが激しく興味や関心事が限定される」ことや「(個別差あり)感覚において超越した能力を発揮する」という特徴を持っています。

定説では自閉症スペクトラムは遺伝的要因であり、その発症率が「25人に1人」というデータを主張する研究者がいるようですが、仮に同程度として、この発症率は他の遺伝的障害(と呼ばれている症例)に比べて発症率が非常に高いそうです(通常の遺伝的障害の発生確率は1万分の1以下と非常に小さいとのこと)。
正高信男氏は、自閉症スペクトラムは人類の集団活動において「必要不可欠で存在意義がある能力」であり、ゆめゆめダーウィンの進化論のように自然淘汰される対象(=障害)ではなかったと主張します(この時点で既に説得力があります)。

正高信男氏は、自閉症スペクトラムの人が数理的思考や生物に対する関心のように自然主義的な事象に優れた成績を残すことが「人類の進化の片輪」を形成しており、人類の繁栄に不可欠であったと主張されます。
前述の氷期におけるネアンデルタール人との生存競争のように、過酷な自然界に対応する各種発明(針や衣服、狩猟武器や使用方法の発明)を担う自然主義(同氏の表現)の人と、集団内における調整とノウハウ共有や伝達に能力を発揮する社交に長けた人の「二者の存在」があり、双方が集団の生存率を高めることに貢献している訳ですが、特に経験に基づき天候変化を予測したり、毛皮服で寒さから身を守ったり、動物の習性に基づいて狩猟の戦略を練ったり、針や投槍器(アトラトル)を初めとしたテクノロジーを発明し進化させたりと「自然主義の人々」の革新が人類繁栄に欠かせなかったと考えます。

しかしながら、社会が文明化し産業化する中で、テクノロジーの進化自体も「巧みの技」から規格化へ、そして効率化を重視した「工房化および分業体制」が図られ、必然的に自然主義的な人は集団の中で少数派となり、言わば「社交性に長けた声が大きい多数派」から迫害を受けることになります。

産業化により人類が自然から遠ざかれば遠ざかるほど、人工物や人工物が発する事象に対して過敏に反応する自閉症スペクトラムの人たちが多数派に忌避されるようになります。
正高信男氏が例示されていますが、古今東西において移動生活を始めたのは音楽的パフォーマンスを生業(なりわい)とする人々であり、彼らは各地の定住民との付き合いが下手であり、逆に定住民から排除され放浪を繰り返しました。言い換えると、これは自閉症スペクトラムの人たちに対する迫害の始まりでもあります。

昔も今も環境変化は我々の生存を脅かす外圧ですから、我々個々が役割を担って立ち向かうことは実は大いに意味があります。
一人のゼネラリストの超人的な働きよりも、多数の「一芸に秀でた」スペシャリストや様々な背景を持った人が集い、各々が他者の能力や個性を尊重して相手の苦手を補完し合うことこそが、実は新人類繁栄および生存の秘策であったことに気がつきます。
そして、このことが高度な組織運営の手法であることに行き着きます。

私はこのことを「多様性の尊重」と呼びます。

このように、正高信男氏の自閉症スペクトラムを巡る実証研究は、我々に多様性の何たるかを端的に教えてくれます。

(補足)映画「ザ・プレデター」における勇者
映画「プレデター・シリーズ」は第一作(若きシュワちゃんのアレです)以降、個人的に好きな娯楽映画でして、2018年9月に劇場公開された「ザ・プレデター」はシリーズ屈指の「内容がないC級映画」です(でも大好きです)。

これはネタバレになりますが、この映画における「勇者」とは、あの凶悪無比なプレデターと互角の戦闘を繰り広げる軍人ではなく、「驚異的な記憶力を有する(一目見た多数のチェス盤を再現できる)」「プレデターの言語体系を解析し理解する」「プレデターのシステムをハッキングする」能力を持つ「自閉症スペクトラムの少年」です(サヴァン症候群とも)。

ストーリーから、プレデターの首魁が勇者視するのは人間の主人公でありリーダー格の元特殊部隊スナイパー(クイン・マッケンナ)と思い込んで見ているのですが、実は自閉症スペクトラムである「主人公の息子」であることを終盤付近で知ります。

これは余談ですが、件(くだん)の親子の会話で息子が「僕がお父さん(エリート軍人)が望む子供(ばりばりアクティブという意味)になれなくてごめんなさい」という台詞があり、不覚にも目頭が熱くなりました。

プレデターは進化し続けており優秀な遺伝情報を探索し続けている・・・というSFですが、この着想は、前述の自閉症スペクトラムの研究の底流にある「能力であって障害ではない」というメッセージでしょう。
このC級映画をそういう風に見ているのは私だけかも知れませんが・・・。

◆「多様性の尊重」を考察する

これまでの議論を踏まえると、温故知新とはよく言ったもので、考古学がこれ程までに経営的示唆に満ち溢れていることを教えてくれます。
そして「多様性の尊重」は平和的かつ穏便に行われるべき「分別ある大人の行為」であり、この考え方は第4回コラムで触れた「日本型資本主義の方法論」とも合致していると思料します。

私の子供に教えてもらいましたが、最近の中学校や高校では「ディベートの授業」があるそうです。
「議論を戦わせる」という訓練なのでしょう。

私のディベートの印象は「お題は何でもいいので、二手に分かれて相手方を論破する」という信念のへったくれもない言葉の格闘ゲームです。
学生時代に酒を呑んだ状態で、お題は「天皇制」で賛成派・反対派に分かれて(私は賛成派)ディベートして、胸ぐらの掴み合いになったのはいい思い出です・・・タダのアホです。

ですが、そもそも相手を論破することが目的であることに違和感を持ちますし、日本人のやり方にはそぐわないと思料します。
これは自明の理ですが、議論の目的は主義主張の中身や「なぜその考えを支持するに至ったのか?」の経緯を平和的に確認しあうことであり、更にはその先にあるべき「折衷点や妥協点を見つけ合う」とか「更なる改良や革新を見いだす」ことも目的の筈です。

先ほどの自閉症スペクトラムの話の中で声が大きい多数派の話をしましたが、集団における調整派は間違いなくディベートに長けた声が大きい人間でしょう。
しかしながら集団として折衷点や改良を引き出したいなら、そしてそうした大方針があるなら、大切なのは「相手を論破する」ことではなく相手を尊重して意見や思考に寄り添うことであると思料します。

その他のコミュニケーション手法に「ブレスト=ブレインストーミング(brainstorming)」がありますね。
参加者が自由に発言してアイデアを出していくことで解決策を出していく手法です。
一般的なブレストのルールといえば、

  • ・発言者の批判をしない
  • ・発言者の発言につなげて話題を発展させる
  • ・批判せず、粗野な考えを歓迎し、自由奔放な発言をすること
  • ・発言内容に判断を下さず(いいね~)、結論も出さない
まではよく知られています。
尊重していると言えばそうかも知れませんが、少なくとも「多様性の尊重」と言える水準には至っていないことは確かです。

ブレスト実施で本当に必要なのは、ブレストを実施した後、即ち、

  • ・ブレスト終了後に発言内容全体を須(すべから)く俯瞰・鳥瞰し、論点のズレや漏れ抜けを吟味する
  • ・吟味結果を踏まえて再度ブレストを実施する
ことであり、これを行わないブレストは「単なる放言(言いっぱなし)」に過ぎません。

実は、この「論点のズレや漏れ抜けを吟味する」とは、多数派の意見を確認すると共に、声が小さい少数派の意図を汲み取る大切なプロセスであると思料します。

私は実務家ですので、実務的に「多様性を尊重」するために取るべきコミュニケーション手段はディベートではなくブレストであり、それも前述のように「論点のズレや漏れ抜けを吟味して重ね」「前回結果を踏まえて先に進む」ブレストであると思料します。

少数派の意見を継続的にくみ取る仕組みがない限り、現状バイアスや成功バイアスのような「声が大きい者の常識の踏襲」に終始する可能性が高く、更に始末が悪いのは「声が大きければ大きいほど改良や革新につながる『自称成功者にとって耳あたりが悪い意見』は高い確率で葬られる」ということです。

身分の差や経歴の差、理解度の差や年齢の差は、時に声が小さくなる要因に成りかねませんが、社会的なヒエラルキーの下では立場の差は如何ともしがたいですよね。

場(物理学の場と同じです)を支配する議長は、議論参加メンバーの多様性を事前に把握し、議長が場を誘導するのではなく本来場が有する方向、即ち「互いの意見や立場等の多様性の尊重」と「声が小さい少数派の意見を精緻に汲み取る」方向に導いていくこと・・・こうしたブレストが怒濤の変革期に必要な高度コミュニケーションではないでしょうか?

多様性の精神においては、コミュニケーションが「下手な人」も暖かく迎え、その知見を丁寧に拝聴し汲み取ること、少数派とか弱者という「失礼な」表現を捨て去って「円卓の概念(上座・下座の概念が無い)」で等しく平和的な議論(≠ディベート)を尽くすことが実務家に求められている姿勢であると思料します。

「今の若い奴らは・・・」とか言っているそこのオッサンへ、オッサンもかつては「今の若い奴らは新人類で訳分からん」と言われていたでしょ?

◆多様性の尊重は寛容性を生み出す知恵

話は脱線しますが、本コラムで述べたように、我々は「第2次出アフリカ」を果たした新人類を共通の祖先とする(ゲノム的に)単一な民族です。

現在の世情は荒れており、そのような人間環境下では保護主義や排他的・差別的な風潮や考え方が蔓延することは歴史や現コロナ禍もが証明している所ですが、翻って、そうしたゲノム的単一民族同士で「敵対し合い」「罵り合い」「殺し合い」にまで発展している世情の愚かさを噛みしめます。

昨今は、新型コロナウイルスのワクチン接種を巡る議論や、各感染予防対策が個人の権利侵害を起こしていることへの法的議論が提起されずまかり通っている事態に、多数派の結論ありきで、多様性や少数意見に目を向けない風潮を感じるのは私だけでしょうか?

この風潮は日本人が陥りやすく、かつ民族として大失敗した「先の大戦」の前夜と同じ状況です。

※憲法第25条
  • 第1項
    すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
  • 第2項
    国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

第2項から社会保障制度に焦点が当たりがちですが、第1項は「明確な補償が存在しないのに外出禁止や休業要請に罰則をつけて個人の自由権利を侵害する」観点で抵触しています。

※憲法第29条
  • 第1項
    財産権は、これを侵してはならない。
  • 第2項
    財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
  • 第3項
    私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

もうお分かりですね。
第3項の私有財産には(当然ですが)営業権等の資産も含まれるので、地方自治体や国家が最高法規である憲法に違反しております。

※憲法第98条
この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

分別ある者が自らの主義主張を一旦横に置いておいて、まずは相手の話に耳を傾け理解に努めること、それが対立を緩和し寛容へと向かう知恵であると思料します。
第2回のコラムで述べた「自ら調べて考察する」もそうでしょう。当然、ビジネス実務や実社会において、こうした寛容性は必須かつ不可欠であると思料します。

◆多様性とは謙虚さと見つけたり

本コラムの導入部分で「成功バイアス」の話をしましたが、この考え方には「自分が一番詳しい=周りは素人」というエゴが存在します。
しかしながら「有事の拙速」で述べたように、前提条件やシナリオがコロコロ変わり、これまでの常識が通用しない=非常識になりうる混沌社会において、一人の超人的ゼネラリストは知りませんが(そんなの普通いません)、我々のように一般能力のレベルと対応範囲(スコープ)や時間リソース(24時間)が限られている中で前述のように他者との連携を本質的に強化するためには、我々個人が他者に対して謙虚である必要があります。

「ジャンボ機は落ちない=フェールセーフ(fail safe)」は有名な言葉ですが、これは「あるシステムがダウンしても、他のシステムがバックアップして最悪の状況=墜落に至らない」というダメージ・コントロールの概念であり、実は日本人が伝統的に不得意とする考え方です。
なぜなら、日本人は伝統的に「故障しない」前提で考えるからであり、最近でこそコンティンジェンシープラン(Contingency Plan)なんて言葉が知られていますが、概念として一般的ではありません。

フェールセーフを本コラムの主題である「他者とのコミュニケーション」に置き換えた場合、個人の主義主張に基づく(あなたの)常識論は横に置き、他者との円滑コミュニケーションとは「双方が思い込みや前提を捨て去り」「相手方の思考や認識を想像して適宜確認し」「細部において齟齬=行き違いを生じさせない」きめ細かいコミュニケーションであることが浮かび上がります。
言い換えれば、相手方の多様性を尊重することに他なりません。

このことをビジネスの先人達は「報(告)・連(絡)・相(談)」と定義しました。

自らに謙虚さがなければ相手方に寄り添うことは皆無ですので、少なくとも報(告)と連(絡)は欠落してコミュニケーションは劣悪になります。当然、何をやっても上手くいかないでしょう。

考古学の概観を通して本コラムで見聞した人類生存および繁栄の知恵は、学説としてある程度の推定は仕方ないとして、「お互いの得手不得手を尊重した役割分担」と「少数派の革新意見を汲み取る謙虚かつ平和的なコミュニケーション」にあった可能が高いことは、怒濤の変化社会に生きる我々実務家に対する示唆であると思料します。これが「多様性の尊重」です。

ビジネスの生存率を上げるため、お互いの多様性を尊重するコミュニケーション術を磨きましょう。

今回はこの辺で。